ただただ

 Gmailを覗いていたら?ブログの思考の坩堝が開設から半年とのメッセージ。受信フォルダは毎日消すために見る。定期便は全部来なくてよいのだけど、メルマガの設定がややこしいものもあって。精神衛生上フォルダは空が良い。本当に大事なのは自動振り分けフォルダ設定をしている。どうやってしたかはもう忘れた。

 そう、半年。あまり記事数注視していないけど、177かそこら。よくもまぁこれだけ無駄な文字を生産したものだ。概算すると、1記事2000文字として、まず200をかけると4の後に0が5つだから40万文字。そこから2000に23をかけた46000を引く。35万4000文字か。確かに坩堝である。計算は自分の頭でちゃんとした方が良い。180かけてから3かけたものを引いた方が単純だったな。36万ひく6000。もっと簡単な手法もありそうだけど、まぁ良いや。この文字数はここがあるから在る。そうして、コピペ先より遥かに読みやすいと思う。レイアウト的に。

 さておき。Excelはシートの移動のショートカットキーを覚えた。とても使い勝手が良さそう。シートを分けて整理しているからたまたまというところもあるけど、ショートカットキーは使おうと思わないと使えない。あるのは知っていても、使い初めには全然早くないし。1からを許容できるかどうか。最終的には全てのキーボードを見ずに操作できるようになることが目標か。これもきっといつかはできる。僕はポンコツだけど、継続には強いらしいから。

 自分にこれほど辛抱強い性質が備わっているとは思わなかった。飽きやすい奴だって言われてきたし、勉強をこつこつすることもできなかったし。高校の勉強はほぼポンコツ。でもこれは分かった。比較と与えられたものという不純物があったから。何時間勉強したかを毎日記録するような高校だったのだけど、やれといわれたら気力がとても削がれる。仕事はやれと言われたことをやればちゃんと給料が返ってくるという意味では遥かに義務的勉強よりは楽よねと。比較の観念は、当人とは無関係に凄いなら問題ないけど、自分がしたいのにできていないことできているという意味の凄いではやや困る。不純物感。

 ここに僕が欲するどうでもよさが出てくる。自分には影響しないけどよくもまぁそんなことやっているわーっていう自分と相手を切り離した凄さであれば僕は自由で居られるけど、自分と比べて凄いと言われると、貴方の劣等感を煽ることは求めてないという精神のブレーキが出てくる。精神構造の話だと良い人で居たいという無意識の固定観念から物理的身体にがたが来る人が多いらしい。僕はそういうのはどうでも良いのだけど、僕の存在が無意識に悪影響を及ぼすのは嫌だなぁと。僕は地道に継続しているのに自分はちっとも進んでないみたいな観念。人は自分にしかなれないのだから、方法論は人それぞれでしかない。個人の尊重って同調の対極にある。なかなか難しいとは思うけど。

 今日読んでいて面白いなと思ったのは、デカルトさんの方法序説が言う「方法」って、歴史をリセットするものだったという記述。歴史の拘束から人の観念を開放して、どんな人でも同じような結果が出るようにするという試み。方法序説って国語の評論の部に載ってもよさそうだけど、何か不都合があるのかしら。自分の歴史をリセットする方法論って現代でも需要があるような。なんとか法みたいな本とか。デカルトさんのは、もしかしたら何かをしさえすれば良いという手っ取り早さはなかったから浸透しなかったのか。ちなみにまだ原文さらってない。

 アランさんは書物の文字に埋もれた人は現実の儀式とか儀礼がどれだけ自分の無意識に寄与しているかが分からないと言っているし、吉田武さんは決まっているように見えているものという習慣が思考にとっては不純物だと言っている。もちろん意訳だけど。

 感覚の統合としての現実感でいうと、僕は現実とは外界という対象を自分の感覚器を通すことかなと思っている。夢想も空想も含まれているし、寒さ暑さとか苦さ甘さとか心地よさとか書物とか、諸々自分を通るものは全てが意外であり現実。その中で何に偏るかという選択が物理的感覚器とか社会的観念に寄っているひとがいわゆるまともなヒト。

 物理的感覚器は当然だけど、なんというか、読み取った後のものが楽しく在るように生きることが命なのではとか。僕は個人的そろそろ退場するのではないかという感覚と一緒に生きているけど、読める本が進行形で拡がっていることはとても楽しい。例えば歴史小説は読む気すらなかったのに、水滸伝があと2冊になったし、哲学書おろか翻訳された洋書も全然読めなかった。演劇もきっと旧来の自分では見ることができなかったし、まして劇評とか無理だった。

 

更新しつつある感覚器であることが僕の定義。

そのためには素朴な感覚器である五感はおろそかにできないし、書物を読むための感覚器はまた別にあるけど、そこも磨き続けるしかない。だから、読み取った後のものは本質ではない。きっと意味が分からないだろうけど、もともと読み取りたいこととか結果ありきでは生きていないということ。本の師匠が言っていた、貴方は読む人だというのはこういうことなのかね。

 

あぁそういえば、ベルグソンさんが書いていた選択の話。可能的過去の選択肢。自由とはなんぞやの話。人が想う選択肢って、未来じゃなくて過去に向いている。選択した後に、あの時違うことも選択できたということが本当に自由なのかと。ベルグソンさんはもちろん一蹴するためにこの例を一蹴する為に用いていた。当人は言っていないけど過去の自由性って、単なる想像力の範疇でしかない。

 

 僕は随分自由になったけど、自由とは何かって今の行動でしかなかろうと。相手が僕に対して自由に振る舞っているのかもここを読む。というか、自由は今しかないでもいいや。

 どうしようもない好きもこの文脈だろうなぁ。悪影響になっているだろうリスクの方が重いのに、今居ても立っても居られない観念。ただ、物理的五感が感得したいとも違うからややずれている。適切なのは、好きと言えるうちに言っておきたいかなぁ。そのうち、言えなくなりそうだし。と言う退場観念。退場観念のが現実的。

 では、皆さん楽しく生きられますように。