自分の楽しみ方

 洗濯機を二度回して、スーツをクリーニングに出して、何時間か情報を整理して、わさび菜と豚肉の炒め者等を作った。本日の体の動きはこんな感じ。あまり楽しいという感覚が出てこないのは、完全に主客が一致しているからかなとも思う。あらゆる言語化された感覚とか感情は、俯瞰があるから言葉にできる。誰にも説明できない、しようとしない感情でも、手に取るためには言葉が必要。思考とか感覚もそう。ただ、人は言葉にできると自分が伝わった気がするし分かった気がする。楽しむとはなんぞや。

 ところで、ホームページでTabキーを使って移動するとどの順番で項目が配置されているかとかが分かってプログラムがうっすら見える気がする。Webの中でどういう風にデザインするのか。日記も個人ページで作ってみようかという試行観念。なんでも試そうとする精神はあんまり他人からは吸収できない。いや、他人の範囲が狭かっただけなのかもしれない。貴方は不器用だからそんなことはできないという他人を評価する人なんて正味関係として要らないよなぁと。着々とショートカットキーとは友達になっている。方向音痴と位置情報に対する身体意識のずれは相関しているような気がする。手入れがいっぱい必要ということで言えば、僕は僕を愛すべき人物として評価しているのかもしれない。自分ともまぁまぁ仲良くなってきているのか。

 見たいものを見て接したい人に接して言語にも振り回されない。ただ自分に殉ずるだけ。進化と変化と進歩と退化。生物学的には発達も退化も進化の一種らしい。進化とは環境に適応する形態的変化。うしおととらでは、進化の反対は無変化だと言っていたけど(by勝)、環境が変わらない限り無変化は進化の対義語にはならない気がする。環境に合わなくなるような変化が進化の反対。まぁ進化は種全体が主語だから、種を残さないことが反対なのかも。反出生主義というらしい。

 個人レベルで言えばどこまでを変化として、どこまでを自分とするかのバランスでしかないけれど。自分が自分固有の領域だとしている部分って、かなり操作的に決まっている。環境と自意識からの捜査。でも、その決まっているものが自分を存在させている訳で。僕はもうこの辺りは恣意的に操作できそうだなと思いつつあるから、あえて自分が自分で在ることの証明は要らないかなという感じ。意識にとっては自分すらも対象でしかない。

 あれ、こんな話をしたかったのだっけ。こんな話か。自分の感情も自己観も結局はだいたい影響から積み重ねてきて創り出されたものでしかない。ベルグソンさんが言うように本当は人の感覚は一生変化し続けるしかないのだけど、そこを今というある程度の時間でまとめたのが暫定的自分だと思う。要は、今という時間性には個体差があるということ。だから、社会的でもなんでも良いけど、関係における時間は人の個人的時間とずれている。個人的時間も探らないと分からないことだから、分からずに一生過ごす人が大多数だと思うけど。

 自分はこういう人物だという自己評価ないし他己評価が本当の自分を殺している。殺したことで矯正できるのであれば生きる為にはしょうがないけど。毎日の祈りで、世界がぶくぶく満たされますようにとして見ているのだけど、自分の存在とか満足が比較に依っているいるなら、満遍なく満足とはいかないのだろうなと、外から目線。自分を変えること自体は今日から今からすぐできることだけど、誰かと比べてとなるとなかなか大変。比較で考える限り自分が固有になることは一生ないし。

 たぶん、そういう観念の人は、自分が自由ではないとの自己観に囚われている。でもここの自己観は、昨日の話で言っていたのと繋がっていて、誰とも繋がっていない自分個人の存在を認めることができるかという意味ではなかなかの修行ではある。仕事との共通項は、誰かに観測されていることで自分を保てること。

 僕が言う自由とは未来を未来の自分に投げること。明日の想い人との邂逅をシミュレートしているのだけどどうも不確定。名乗るルートと名乗らないルートを考えていて、あとそれぞれのルートで想い人に対してどんな言葉を贈るのだろうとか諸々。名乗ってくれたら嬉しいって言ってくれたのだから名乗れば良い、ということにはならない。何故かというと、別に僕は想い人の嬉しさの為に言動していないから。相手が嬉しいとしてくれることはありがたいけど、それに手放しで言動することは自分を殺す。

 なかなか細かいけど、この切り分けが必要なのが僕のポンコツ具合。ただ、とても楽しみであることは確かで絶対。そもそもこんなにめんどくさそうな奴に現実的に関わってもろくなことないのに。

 楽しみを言語化すると、自分が想い人にたいしてどう接するのだろうというシーンと、想い人は僕を現実的に認識したときどういった表情をするのだろうというところ。この未知数が自由だと思うのだけどどうだろう。未来を選択するという意味での自由は、自分が自分である限りほとんどない。せいぜい何を選択するとか誰を選択するかとか。

 あー緊張するなぁ。願わくば、僕の物理的肉体が想い人の生理的嫌悪感を催す枠から外れていること。この枠に入ったらどうしようもない。

この未定感が人生の醍醐味としている。明日は新しい自分を発見できることだろう。他の人は知らない。この、他の人は知らない断言できることが自己観の極致かとも思う。

 

 では、皆さんに僕の充足がおすそ分けできますように。