思考の坩堝

避難所

身体の不自由性

 まるで夢のような1日。いや、現実感を基準とするなら、まるで現実のような1日。あれ、ただの人生に1日しかない1日って、毎日では。

 

 京阪ともだいぶ仲良しになった。月2回くらい会っていたらもう親友以上だろう。浮ついた気持ちを丸善で落ち着かせた時点で本日の着信は類型5回になっていた。丸善の雰囲気はシックである。そういえば名古屋の丸善も。結局神経免疫学の一般向け洋書と要件事実入門を購入。本日は大漁なり。

 さて、メンヘラ彼女のような着信回数だけど、そんな存在は居ない。母親である。ラインでは時間が空いたらと殊勝なメッセージと裏腹に。血は争えない。ただ僕の場合は逆転している。しゃーなしでかけ直すと、心配とか怒りとかではなく、単に息子に愚痴とか自分の正当性とか力仕事をする機会を逸したことが不満だったらしい。それを取り返すように1時間弱鴨川を眺めながら話を聞いていた。途中、鴨川にスマホを投げてしまいたい衝動に駆られたけれど、今日の僕の心の広さは宇宙規模の絶賛無敵状態だから、こうやって他人に承認を求める精神はとても健全だなぁと思える。

連絡不精をちくちく不文で攻撃しているのは見えるけど全然効かない。他人事である。刺激によって世界が鮮明になる在り方は、外界が鮮やかに見えることと自分の輪郭がはっきりすることがあって、今日は後者。

 話の流れで、あんた恋人は居ないのかと聞かれて別れたと答えた。したり顔で仕事の方針が立っていないから難しいよなぁと納得していた。いや、元恋人さんとはそんな俗っぽい理由で離れたのではないのだけど、と思ったけどいちいち説明することもないなと。他人の人生の理由なんて当人が納得できればそれで良いのだから。自分が一番大事なのである。

 

 

時は遡及して。京都の距離感は文庫本が1冊往復で読み切れるからとても好ましい。本日は美学をモチーフにした黒猫シリーズの遡及する塔の話。遡及する塔とは、現代物理学ではいつ崩壊しても分からない、上向きな建築が塔であるはずが、途中から頭を垂れた塔。何日か前から読み返せ―とアピールしてきていたから、なんだろうと思ったら今日の為の本だった模様。物と肉体と精神について。身づくろいをして本を買うために本を読みながら移動する。

 文学フリマとはとても官能的な場だ。想い人が参加していたということとは無関係に。だって、僕にとって本を読むというのは食べることにほぼ等しいから。作者が1つの机を隔てて実際居るということは、私の人格を食べてね、貴方の人格を食べますよという比喩としてのまぐわいに見える。場として落ち着かない。

 人が共食いを禁忌としているのは、生生しさとか倫理観が関係しているのかもしれないけど、摂食行為が外界を取り込む素朴な感覚だとしても、他の感覚器官が取り込む行為も同じようなものだと思う。精神的人格にとっての食糧は五感全部だし。僕にとって文章の取り込みは自分を変化させるごはんだから、食べ物よりもかえって生生しい。自分の観念と作者の観念の観念的まぐわいみたいな。人が世界から何を読み取るかは物理的五感というより、物理的五感からの情報を束ねた精神に依存していると思われる。

 ともあれ、文学フリマでは既に目的は決まっていたので、他の何かを買うという気はおこらなかった。メインディッシュがあるし食べられるのを分かっていて、他に美味しいもの在るかなぁと目移りはしない訳で。

邂逅についての言語的スケッチはとても難しい。五感が正常に機能していなかったし。普通の言葉で表現するならば、緊張でテンパっていたということ。なので後回し。というかこの言語化は直接送った方が良いのか、いやこれも恥ずかしい。保留。

会話の断片で、劇評が演出家から好評だったとのこと。ティラノサウルスの人と呼ばれているらしい。次の劇評も書いてくれないかなぁとか。これは僕が初めて演劇を観た時の夜に書いた日記のタイトルで、二回目に劇評の公募のサンプル文章でコピペしたはず。どっちの文章が引っかかったのかを聞くどころではなかった。どちらも何を書いたかはあんまり覚えてないけど、イメージとしては鮮明だからここから逆算ができる。写真に残さなくても、心にはシャッターがあるから焼き付けられるイメージが残る。

最初の方は、割と断片的な焼き付けの単なるスケッチだったような。あくまで日記だし。生まれ落ちることが当たりだとか外れとか、こちこち口で鳴らす音がメトロームを思わせるとか、ワイヤに釣られている回転速度も計算されているのだろうなぁとか。もう二年前になるのかもしれないけど、僕の中のイメージは鮮明。二回目は報酬があったから素面できっちり分かり易くまとめた気がする。粘着性のある液体とミニチュアの舞台と人の孤立感みたいな。僕の言語あんまり一般的じゃないから翻訳するのが大変だったような。

どちらにせよ、何が良かったのか分からないけど、ここで今日の読み返し黒猫さんが出てくる。黒猫さんは芸術を素材とか観念で分解して推論するのだけど、僕も外界を捉えた素朴な直感とは別に、その外界の素材はなんだろうと思考する癖があるなと。発端は直感(直接感得された外界)だから、直感の為には自分を拡張する必要があるし、そこから考察する素材については自分はあまり関係ない。

観念と言えば、カントさんの先験性。アプリオリともいう。純粋理性批判はあと何回か読み直すことになるだろうけど、この先験性って、自分の経験側とは離れているのは確かだけけど、直感も経験則を前提としているわけで、要は、経験から抽出された自分ってことなのではと思わなくもない。

最後に後回ししていたもの。色々と想像していたものは文学フリマという場で全ておじゃんになった。これだけ近かったら隠し通せるはずがないから、もう一言目にばらしてしまおうと。試食してみて美味しそうだったら買うのが通常形態だから、試食する前に一式下さいって言えば分かるかなと。そうしたら、一回目の演劇のイメージが焼き付いていたらしく、その前にバレ気味だった模様。確かにそういえば服装同じだったと思い至った。今日も含めてだけど、物として想い人は焼き付けられない。逆算して一回目の受付に居た人だと記憶を掘り返しても、そこだけ真っ白です。

やはりここから先は本人へになるか。

 

では、みなさん、自分の現実感を大切にできますように。