限界

 

 

帰り道、カラスの森の手前の家に咲く梅みたいな花は日に日に鮮やかになっている。いつも帰る頃はだいぶ暗いから厳密に言えば見えるのは形だけで、色は脳内補正なのだけど。宇治植物園を通り過ぎて考えると、梅じゃなくて冬桜なのかもしれない。カラスの森も正確に言えばカラスの森だったもの。今やどんどんと、いや、だんだんと住宅地らしさが増している。そのうち窓から明かりも漏れてくるのだろうなぁ。

今日の珍しい人は、その時間の光量なのに歩きながら本を読んでいる人。どれだけ面白い本なのかと思うと興味津々だけど、残念ながらカバーがかかっていた。そういえば、現実時間では一昨日になるのか。文学フリマの帰りの電車で本を読んでいたのだけど、目を上げると、とても面白そうな本を読んでいる人がいた。百人一首はなぜあの和歌が選ばれたのかという本。人が読んでいる本ってとても気になる。参考書でもなんでも本の形、いや紙媒体ならなんでも良い。世の人はブックカバーをかけずに本を読んでくれたらいいのに。

どこの図書館由来の本なのかという情報もとても良い。生活リズムであまり借りないけど、図書館の匂いはとても良い。古本以上に使い込まれた本達。嗅覚も外界の摂取だけど、あまり生生しくないのは、生々しさの前準備みたいな感覚器官だからかも。美味しそう、まずそう、をまず切り分ける。

さて、面白い人生なのは相変わらずだけど、あまり眠れなかったし、PCはエラーで再起動になるし、なんとなく変な感じ。凶兆なのかなぁとか思ってみたりして。あまり楽しそうに表現しすぎるのも良くないのかなぁとか。ほんとのところでは、他人にどうやってお裾分けできるのかを考えるくらいに満腹なのだけど。

 どんな言葉も呪詛性を帯びるのかなというのは、やはり母親からの言葉に感じる。法律学の本が他と何か違うなと思ったら、母親との通話で、彼女が勉強って括ったからだろうなぁと。加齢の筋肉痛みたいに時差で響く呪詛。無意識に作用してくるとはなかなか根が深い。勉強ではどこにも行けないという性質をやっとこさ調整しているところで、人の心に重しを載せる。まぁ理由なんて後付けだから、なんでも良い。結論としては僕の人生においてあまり話してはいけない人はいけない人なのだろうなというだけ。血の繋がりとか、僕にいくら投資したかとか、全く関係ない。これで僕が他人にも義務感を強いるようであればそれはフェアじゃないけど、義務感とか惰性の関係全部断捨離した訳で。ここを改善するより自分が楽しいところを突き詰めた方が有意義。これを薄情とするのかどうなのかは知らないけど、どんどん良い人ではなくなっているなぁ。

 こんなの肉体に付随した枷みたいなものでしかない。体質の遺伝はともかく、気質の遺伝は自我が生まれるときに一番近かった人間くらいに意味しかないような。知らんけど。

 

 口角上げよう(目線を下げて)。

 

 さて。本の話。生物学の一般書はあと1日か2日で読み終わる。アルコールが脳を麻痺させるみたいな話もあった。脳を麻痺させる原因の1つではあるかもしれないけど、アルコールがストレスからの逃避に使われるためであって、根っこはストレスにあるような。単に飲みたいとして飲んでいる限り、あまり関係ない気がする。要は居場所をアルコールに求めるかどうか。もう一回くらい読み返そうかと思ったけど、この本は多分無知の塔からだるま落とし。

 ストレスが体の痛みに繋がるという本ももう外れたのだけど、人の根っこの憤怒は世界というより、環境という対人にありそうなという印象。安定と言う不自由に対する無意識の反逆。どういう人でありたいかというもどういう人に見られたいか、現状どういう人として見られているかというミラーハウスみたいなもの。

 生物学の系譜は最新免疫学に繋がるのだけど、冒頭からデカルトさんが出てきて面白った。医学の一般向け最先端の本がもはや古典になっているだろう哲学から始まるところ。哲学が考えた、人の精神は何処にあるのかがやっと解明されてきた、みたいに。自分の精神は個人にとっては自明に思えるけど、その精神は脳の認知機能に依っていて、脳の認知が免疫系の活動に影響を受けているとのこと。まだ冒頭辺りだからここまで。

 でも、免疫学問答から見ると、免疫のためには、笑うことで副交感神経を活発にして交感神経優位の自分を変えることが必要だという。とすれば、楽しいと思えない人なんてフェードアウトすれば良いし、この人という重しの方がアルコールよりよほど脳を麻痺させると思われる。麻痺しつつ麻痺されつつなら知ったことではないけど。まぁこの枠から出るのはとても大変。人は安定が好きだし。

 安定の拠り所とされるのもまぁ良いかなと思っていたけど、僕の最新知見では安定感は自他を縛るところもあるから、あまり馴染まないだろうなと。相手も自分も縛らずに交換できる関係なんてある訳がないのだけど、そういう非現実な関係がたまたまできてしまった。

 

 水滸伝はなかなかやりおる。いつも1は章ずつ読んでいるのに、面白くて2章僕に読ませた。想い人の本も、時間制限で考えれば明日の僕が読んでも良いのに、今日ひとまとめで読み通さなねばと思わせる。無意識の媚びなのかとも思わなくもないけど、この辺りは人格として不可分。なんだか自分の昔を思い出させる章だった。僕も小学校低学年くらいに自分でくるくる目を回す遊びをしていて、転倒して玄関的な石の角に頭をぶつけたことがあって、ここで正常が欠けたのかもなぁとか。

 

 なんだか楽しさ満載であるゆえに、これのリミットはいつなのだろうって思う。僕と想い人が世にも希少な嬉しさの交換ができているのは、おそらくとてつもないバランスの上でしか成り立たないもの。別に希少ではないという説も出てきそうだけど。

 

 いつ嫌いになられるかではなくて、いつ好きと言えなくなるのか。僕は人に好きという言葉を投げるとき、交換を載せていない。交換の中身は、自分が好きという単語を遣うことを思えばすぐわかる。自分にとって良い物。僕がこの言葉を人に遣うときは、なんて。

 

おしまい。

 

皆さんがそれぞれの個人的観念を大事にできますように。