思考の坩堝

避難所

禁忌

 

 

 

 お弁当食べながらポスターを眺めていると、長居公園の梅が見頃らしい。あれ。では、やはり帰り道のあの花は梅で良かったのか。認識は現実を変える。客観的にはずっと梅なことはたしかだけど、主観的世界においてこの客観はどれくらいの意味があるのか。というか本当の客観的な世界は存在しない。この梅だって、種類も品種もあるだろうし、DNAとか樹齢とか、何処までの情報があれば客観になるのだろう。「梅」とか「犬」とか「民主主義」とか、その固有名詞と結びつく外界への認識があれば客観だと言うのなら、そんなもの客観らしさの皮を被せた主観でしかない。だから、認識は世界を変えると僕は言う。

 だからとて、主観が想う客観は捨ててもいけない。別に生きていけないことはないけど、ある世界圏の枠内はそういう主観的客観の共通項である訳で、社会的生存はなかなか大変。ただ、これだけ。客観は自分以外の誰かも含めた世界の認識。いったい何の話だ。

 

 楽しさと切なさと面白さが混在する生活。客観を排することができたからかなという気もしないでもない。いちいち楽しんでいる。例えば、自分の状態が悪いのも、それはそれで希少だし、自分のバイオリズムを俯瞰している。こういう意味での客観もありそうだけど、こんなの言葉遊びで客観的主観なだけ。そうこうしてやっと僕は僕で在って良かったなと思えてきたから、意味は皆無ではない。

 

そういえば、主観と客観の分類は生活と仕事の分類にも繋がっているのかなと、想い人の日記を読んで考えた。なんだか前劇評みたいになりそう。まださっぱり知らないから、認識が更新されればまだまだ書くことはある。

生活と仕事を峻別するという分類法はとても分かりやすい。私的世界と公的世界は全然違うという認識。さっぱりしている。法学から概念を持ってくると、商人ないし法人の下で仕事をするのは雇用契約で労働法の領域で、商人と利益のために活動するのは商法の領域だし、企業になると、利益を株主に分配することで労働者は関係ない。おそらく個人の仕事だと、労働の概念が一番近いのかなと思うけど、どういう仕事が想定されているかはまだ知らない。

仮に労働として、労働契約の定義は、雇用主と労働者の合意なのだけど、その合意の中での中核は雇用主に従って動く、というところにある。その対価として金銭が支払われるという。だから、任意と義務という分け方ができるのかなと。

 ただ、個人的に思うのは、生活の中にも仕事的要素はあるし、仕事の中にも生活的要素があるのではないかというところ。例えば、この前想い人が僕に満面の嬉しさを投げてくれたのは、想い人の中の公的時間の中で嬉しいのか、私的も混同されているのかは分からない。いつか飲みに行きましょうって言ってくれたからアレだけど。まぁここは公的な領域ではあっても仕事ではなかったかもしれない。

 仕事って、ワークだっけ。ワークって多分、資本主義の起こりの工場の機械が開発される前のただ機械的に動く労働力な気がする。日本で言えば八幡製鉄所みたいな。こういう極論で考えると分けるのも分かるし、おそらく素朴に分けられる人は、こういうイメージなのだろうなとも。でも、生活に機械的側面がないとかというとそうでもないような。習慣はまさに生活の中で機械的に動いて人格をショートカットする機械的な自分で在る訳で。

 だから、僕は仕事と生活で体を分けるということには違和感がある。体は不可分だし仕事で得た体の動きは私生活にも反映されるし、私生活の動きと仕事の動きをスイッチ1つで完全に切り替えるようなことは人間には無理だと思う。不完全なら切り替えることはできるけど、この切り替えたつもりが私的なストレスになって、世界自体が崩壊する。愚痴を言えるくらいだと良いけど、愚痴も言えなくなったらその人の内的世界はぼろぼろ。

 自由と不自由で考えても、生活と仕事には同じくらい不満があるのではないかと思うけどどうだろう。不満があることが生活と仕事を包括した人生だと言うなら分からんでもないけど。

 演劇がどこで仕事括るって表現してくれるのかがとても楽しみ。真空パックは閉塞感の表現なのかなぁと想像しているけど、思った通りでももちろん構わん。監督、演出家?の人のファンでもあるから。朗らかなのは良いことだ。

 

 

 さて。僕の分け方。僕は仕事と生活は特に分けていない。社会的時間制限の中でどれだけ活動できるかという意味では特に分ける意味を感じない。むしろ分けるべきは肉体と精神の方。影響範囲で言えば、仕事と生活と、自分の体と人格は似たようなものだけど、精神は社会的物理的時間の拘束から離れられる。

 拘束の意味は誰かいっぱいから習得した認識という意味。僕はこの自由を肉体的世界には置いていないというだけ。肉体的世界はちゃんと物理的に場所を取れるから、自分の存在は良きにしろ悪きにしろあることは確か。肉体的に付随した観念もそう。僕はもう僕の肉体がどういう風に捉えられるかは知っているし、知られたらもうあまり精神生活は動かないだろうなとも知っている。

 この文章を書いている人格が僕の本当なのかというとそうでもない。これは冒頭に戻ってくれたら分かると思うけど。

 

 最後、とある作家さんが自分の文章は読み返さないと言っていた。何故なら、忘れても自分が考えたことは知っているから。この捉え方だと、世界は考えている領域では既知だよなと。物理的現象がそのどれかとかどれでもないとは別に。

 認識でたやすく精神は一喜一憂するし、自分が自分で在る根拠なんて認識できなくても自分で在れるし、体の影響も受けまくるし、そもそも自分なんて本当にあるのだろうか。

 という思考と関係なく現実は流れていく。とすれば、何が自分にとって楽しいかを追及すればいいのではと非現実的なことを思っているけど、たぶん結構正解だと思う。

 

 では、皆さんが楽しく人生を過ごせますように。