思考の坩堝

避難所

ありふれた

 

 

 帰り道の梅の花がどんどん増えていく。なんだか楽しくなってカラスの森の横の道で歌っていた。仕事のおかげか息のコントロール領域が増えているような。さよならとーいっしにーおしえてほしかったよー。この声の出し方私的な領域ではさっぱりできなかった日曜日。

 見頃だったら長居公園より万博公園に行きたい。思い出を更新したいというか。たぶんあの人と行ったよなぁと断片的なイメージが想起された。花見はあっても梅を誰かと見るのはなかなかない。過去はのっぺりした時間の流れではなくて時々鮮明に今に影響を及ぼすイメージだろうなぁと思うと、父親が倒れた姿が思い出された。雪がちらつく中、父親の顔に触れる指の感触。ごつごつしていたような。そのまま一度も目を覚ますことがなかったなぁ。センター試験間近で対策に行っていた高校の近くに病院があったから何度かは足を運んだのだろうけど、そこのイメージは残っていない。病院なら祖父が治療の影響で腕がぱんぱんに腫れていたことの方が強い。

 影響というと、その時の感情に「いま」が支配されるというニュアンスを含んでそうだけど、そんなことはない。自分だけが再現できる映画くらいな感じ。感情に響く映画を見た時の他人事みたいな自分の感情。

 さて。今日のお昼休憩はなかなか忙しかった。某業者から電話がかかってきていたから折り返し。どうでも良い他人との通話は私的領域でもとてもスムーズになった。応対の人の心情もなんとなく分かるし。あと、収入印紙17500円分を買う。収入印紙は国で、収入証紙は都道府県。普通に生活していればほとんど使わないのに、なんだか時代遅れ感。この印刷コストもキャッシュレスにした方が良いのでは。

さらに、いやこれは別の話。見知らぬややふくよかな三毛猫さんが居て、目が合うと目を細めてくれたからこれは触らせてくれるかもと思ったけどいつもの如く逃げてしまった。ツンデレかよと、僕に猫を遠ざける何かがあるのだろうなと。尾道では触らせてくれたのだけど。感触はなかったらないで良いと思っているからかも。何かの感触を捉えることは、自分の肉の器が浮き彫りになる訳で。触ることは触られること。

いっそ概念になりたいな。

 

まぁ良いとして。

 

認識と世界の更新の話。英語の科学記事を翻訳しているブログで、細胞は音を発しているとのこと。しかも可聴領域で。ガンになった細胞は調和が崩れた音になるとか。ただ、これが新たな認識かというと、そんなこともあるだろうなと。あらゆる存在は波長というか波。音楽は人の精神に影響を与えるし、演劇もリズムの中にある生活もリズムだし、人間だってバイオリズム。ついでに文体だってリズムだし。

自分にとって良き波に身を置くことが当人にとって心地良くなるのは当たり前。さすがにまだ自分の細胞の音は聞こえないけど、そういえば。文学フリマで京都に向かう京阪電車の中で、一瞬海に向かっている気分になっていた。何故かというと、僕の想い人との関係性の心象リズムが夜の海だから。あれ、なんで海に向かっている気分になっているのだとくずは辺りでびっくりしていた。寄せては返すだと、やや寄せすぎだけれど。

要は、波長はあらゆるところに在って細胞も含まれるというだけ。

 

影響範囲で捉えた現実という括りを考えてみたけど、細胞は誰かにとって現実だろうか。ついでにホルモンとか遺伝子とか。ひいては腸内細菌。明らかに影響を及ぼすはずだけどおそらく含まれていない。では自分が認知できるものが現実である。とするなら客観は意味を持たないし。ここでいう客観は、自分が認知できるものは相手も認知できるものだ、みたいな合わせ鏡のこと。僕は影響範囲で考えたらどんなものも影響しうるとしている。例えば自分の価値観では人を殺さないって断言できたとしても、これはあくまで今の環境だから言えるわけで、戦争になって兵役で仕事として相手を殺してくださいってなったらたぶんできるとは想像できる。のほほんとしたところでは、これは反倫理的だけど、相手を殺さなければ、自分を含めた大事な人が死ぬってなったら、どちらかは選ばないといけない訳で。

 

こういう文脈では想像とは備えよね。僕は完全1人だったら、たぶん誰かを殺す程攻撃的にはならないと思われる。ということで、環境を前提とした価値観という名の現実感って、環境が変わればやすやすと変化して、変化した後はもはや変化前はないもとされる。

 

さておき。

ベルグソンさんの本読み終えた。2回目かな。運動図式ってなんぞやと思っていたけど、そういう明確な文言はなかった。自分の主張書いているの最後の原稿用紙1枚分くらいではなかろうか。でも、共感はできる。要は人の感覚は1回しかないということ、厳密には回数の話でもなくて、瞬間でも適切ではなくて。時間はここでは出てこない。感じたまさにここっていう空間とも違う。感じたと感じたときに感じられるものでしかないという意味。何か他の事象に引き直せるものではない。

自分が起こした過去の行動についてこういう理由があるとかああいう感情に基づいてとか、自分の未来についてこういう選択肢があってとかあれこれ思考することでは自分には辿りつけない。

いま自分が何を行動する、感得することであって、この「いま」は再現することができない。たぶん表現できる言葉がないから「いま」と書いているけど、自分のままの自分とかのほうが適切なのかも。

僕が冒頭に自分の過去が映画のようなものだと評したのはここに繋がっている。過去のその自分には戻れないし、感情という大雑把な言葉で括れば1つにはなるけど、厳密にいえば、あの時の自分の感情と、今それを振り返って再現した感情は全然違う、今のものでしかないという意味。

カントさんの純粋理性批判もまた読み返すけど、おそらくカントさんの人格の捉え方は静的で、ベルグソンさんは動的なのだろうと想像している。これを発展させた黒猫さんの美的図式もこの文脈で読み返そう。

 

世界は知らないことで溢れている。

 

読み終えたと言えば。

イチゴアイスのような女の子への恋文(独訳)を読み終えてしまった。この本もきっと定期的に読み返すだろうなと思う。文体の面白さとは別に、想い人との現実的関係性の証拠として。

 

こういった、関係がいつ終わるか分からないのは主に不安として想像が多いように観測するのだけど、僕のこれは、関係が終わるのは当たり前として、なんでこの嬉しさが終わらないのだろうという今の座りが心地良すぎてしっくりこないというという感覚。

 

まぁ確かに、何の現実的メリットもないのに僕の日記を何回も読み返す人が居れば、お。何故だろうってその人格に対して興味は湧くな。僕の生身じゃなくて文体にだけ興味があればなおさら。

 

やれやれ。

 

では。皆さんが現実を楽しく過ごせますように。