前置き

 

 

 

お風呂で本を読んでいたらチャイムが鳴ってビクっとした。午後9時くらい。それほどダメージを受けることはないけど、やはり無防備のときになるチャイムは恐ろしい。後ろめたさなのか何なのか。まぁ今の無敵状態だと単なる夢みたいなもの。

 

昨日の文章を読み返すと誤字がひどい。カナリアは平仮名だろうよ。固有名詞は大事だろうよ。恋文は脱字も酷かった。いつもひどいからしょうがないけど。

 

さておき。本日はもう少しぶつ切りにならないように書きたい。

万博記念公園に梅を見に行こうか思い少し調べたところ、梅はもう少し先で今はチューリップが咲いているとのこと。うーん。タイミングがずれたかというところで断念。時機と現実が合うというのはとても希少なこと。映画とか近隣府県のイベントを調べてみたけれど、なんともしっくり来るものがなく。

少し気になったのは建築、アーキテクチャの展覧会。建築も芸術だけど人間工学的な実用性とか法律の制限とかも考えないといけない。例えば、僕が住んでいる部屋はおそらく右利き用なのだろうなという量産的建築。まぁ芸術が法律に従わないといけないのは他の分野も一緒だろうけど。歴史的に言えば現代の日本は芸術の表現に対してとても緩い時点だと思う。不適切みたいに思う人もいるかもしれないけど、それを思えること自体が表現の自由の効果だから。

 

まぁ、物理的な移動がなくても精神的な移動はできるから特に拘束感はない。今日は現実的にもう少し自由になる為の訓練。具体的なところを書いても面白くはないだろうから、一言。一般的には勉強という観念になる。個人的には資格試験に対する勉強も何かのスキルも別に自分を高める訳ではないと思っている。今年は受かると決めた。これは僕がなりたい職業でもなく単なる現実的な清算として。仕事が何か分からない。母親からふらふらしてと称されているけど、それほど社会的に仕事していない訳でもない。無遅刻無欠勤くらいじゃ許してもらえない。母親としては投資した分見返りがないことがふらふらの定義なのだろうな。自分に仕送りを返すような仕事に就けと。

 

(それとは別に、空想的に迎えに行きたいなと思う存在もできてしまった。これは現実的なことではないから、原動力とは関係ないけれど)

 

というか、こういう未来に対する何かってほとんど現実的な原動力にはならんよなと。未来には可能性があるだけ。現実的に肉体を動かすのは、どうあっても体に染みついた習慣と、習慣的な精神性。物理的な自分を調整するために必要なのはそういうものだっていう観念を変えること。ではその為に必要なものとは。

 

さて。本の話。

カントさんを探しにうちの本の山を発掘したら、お宝がわんさか。ハイデガー存在と時間キルケゴール死に至る病、ルソーの社会契約論、モーパッサン女の一生ニーチェの反時代考察。この本達は哲学を読みたかったけど当時は読めなかった過去の自分が収集したもの。ついでにドグラマグラ上巻も出てきたけど。要は、本は時機に合わなくても待ってくれるということ。積ん読で積み重ねた本は、読み手が読めるようになるのを許容している。書物は植物くらいに奉仕的な存在。

 

 純粋理性批判は随分と読みやすくなっていた。しかしカントさん、経験とは全く関係ない認識をアプリオリと言っている。その例として、「すべての変化には原因がある」を挙げているのだけど、この時点で、なんかおかしくないかと素朴な僕は思う訳。一回は経験しないとそれを分かることはできないだろうと。ついでに、ハイデガーさんも無知の塔に入り込んでいた。「存在」は定義することができないとかなんとか。これは確かにと思った。定義って、○○とは××であるっていう、定義されるものと定義するものは言葉が違うけど、存在って、自分とは自分だ、みたいな定義不能トートロジーになる。

 

 素朴に自分が存在を確知しているものに対して、他の言葉で定義付けることができるか。この存在って別に物理的なものでは収まらない。自分の感情を他の言葉で定義できるかとかも含む。存在は問い続けないといけないというハイデガーさんとは友達になれそう。

 

 完全に素朴な存在ってまさに自分だけど、自分とはこういう存在だって言ったとき、これって別に定義でもなんでもないよなと。存在じゃなくて、単に一部の描写。

 

 どうでも良い話だけど、コンビニに行って新人さんが居て、新人の癖に手慣れているぁと思いながらばさばさのまつ毛を眺めていた。蛇足だけど男の人ね。観察としての存在は部分だけど、自分の存在は観測する主体。自分の世界が不都合なら自分を変えるしかない。

 

では、皆さん最大限の自由を謳歌できますように。