余生

 

 

 

今日は特に忘れていない。しかしやはり浮いている。ご飯はちゃんとガスを使った。鶏むね肉とキャベツと人参の炒め物。きのこはレンチンで今日は塩昆布とオリーブオイルと七味で和えた。

 

なんとなくひと段落した感じなのでもっとどうでも良いことを考えよう。最終的にループして戻ってきそうだけど。

 

ともあれ。

 

現実とは何だろうというテーマ。生活は概念というより行為の定期的なループの集積だから、現実とは少し違う。こうやって自分の中の言葉のすり合わせをすることがとてもどうでも良くて良き。

 

季節は現実だろうか。もうほぼ春な感じ。梅を見に行くならそろそろぎりぎりか。季節ごとに集積された記憶のイメージで季節ごとの好き嫌いが構築されるし、定期的にやってくるという意味では生活に近そう。僕は生まれた季節である春が好きだったけど、ここ数年で冬の方が好きになっている。

 

生活という概念を除いてしまうと現実ってほぼないのではといきなり挫折しかける。仕事だって生活の範疇であって、特に現実として固有なものではなかろうし。

 

あるとすれば、現実とはこういうものだという現実感っていう客観的な世界に中に生きているという、あくまで感覚論。ここにはおそらく社会とか法律的なインフラが含まれる。自分が生きている環境がすなわち現実であるという実感。

 

そうすると、生活から分離された現実とは、何か固定されたものというニュアンスがあるのか。動かしがたいモノという意味ではなんとなく分かる。別の意味で。

 

自分ではどうしようもないのが現実の定義で良さげ。

 

僕はほとんどのそういった現実っぽいものは、そんなに動かしがたいものではないというか、ほとんど現実として影響を持たないと思っている。法律も社会も所詮誰かが創ったものでしかないし、読み取るツールとしては面白いけど、自分の内側まで侵食するようなものではない。現実を規定している何かの雰囲気みたいなものはあまり関係ない。

 

では、本は現実かというと、僕の日常に必然的に存在しているけど動かしがたいものかというと微妙なところ。これは動かしがたいものというより、僕が在る限り存在とセットのものかなというだけ。現実とも生活とも無関係。

 

本と言えば、帰りに30分も本屋で物色していた。AIの本の次の理系本が欲しかったから。一番引っかかったのは、気象学の本で、気象予報士の試験にも対応しているとのこと。ただ、買うまでには至らなかった。用語説明の本はあまり好きじゃない。今度は地学かなぁ。

 

219日には唯一新作で連作の小説をずっと読んでいる本が発売するし、その頃にはバナナ剥きには最適な日々も読み終わるだろうし。この本を買ったのも、もしかしたら日誌にあった、真空パックのバナナの像が無意識に残っていただけかもしれない。中身は、かなりな理系で、恐らくプログラムとか二進法とかが関わっているのだろうなと思うけど、なかなか難しい。

 

思考にはストックがいっぱいあるけど、どれを書いていてどれを情報として落としていているかが分からない。

 

新鮮なところで言うと、動かしがたいモノを現実とするなら、肉体よりはもう少し内側のことだと思う。肉体は劣化するでしょう。劣化しなくて動かせないものって、観念とか感情とかではなかろうか。

 

僕も生き辛さは持ち合わせている(こんなに浮いている毎日でも定期的に退場したくなる)から、これを動かしがたいものだとするもありだけど、生き辛さと自分の行為は切り離させる。行為は現実というより現実化なのだけど。

 

現実と現実化の違いは、現実化になると他の誰かの目に触れて、その人の現実になるところ。現実化はもう自分の中からは離れている。ややだけど。

 

生き辛さでうだうだしているなら、それを変える手段は継続的な現実化しかないと思われる。生き辛さは変わらないけど、自己肯定感で相殺できるならいっぱい現実化するべき。

 

なんだろうな。

 

最終的に、僕は何処に生きているのだろうとなる。この日記も継続は200日越えたみたいだけど、それに対して思うのは、これだけ継続しているのはイレギュラーがなかったからだろうなというだけ。続けたかったからこうなっている訳ではないという意味では、ある意味動かしがたいモノのなのかもしれないけどとくに現実は感じていない。

 

では。皆さん良い夢を。

 

おしまい。