図式
なんだかご飯を多く作りすぎてしまった。今日の厚揚げは鮭のホイル焼きをイメージした。バターを引く代わりにオリーブオイルにして、玉ねぎスライスとえのき乗せて、味つけはほんだしとポン酢。なかなかさわやかな味。誰かに食べて貰うならもう少し蒸さないといけないけど。
さて。劇評は書かなかったけど、色々考えた。思考をサボってはいけないなと。ちゃんと事象と事象の間隙を埋める。というかもっと思考って種類がありそうだ。
ハイデガーさんが現存性とは可能性だと言っていて、確かにそうだよなぁと。僕はこういうのを更新可能性と呼んでいた。現に存在するものには未来があって、未来は未知で。では、
可能性がない物事は存在していないのか、というと、可能性がない存在で在り得るのって人くらいしかない。まぁいいか。
哲学者さん達が良く使う言葉として、形式というものがある。形式ってなんだろうというと、収納方法なのかなという印象。要は、不文の方程式みたいな感じなのかな。カントさんは時間と空間がアプリオリな認識の形式だと言っている。確かにそうだけど、もっと先がありそうな。
僕は直感型で受容型だから、基本的にあんまり考えない人。思考は後付けで鍛錬しているという段階。ほんと個人的な形式ではほぼ考えていない。有意なところで考えられないのは割と致命的だから、有意なところで考えるためにひな型になりうるのが法学なのだろうなぁと。
今日は民法の代理の条文とにらめっこしていた。法律の話はつまらないとは思うから書かないけど。いや、書いてもいいけど、結構当たり前のことだろうなと。まぁ現代社会の当たり前の集積が法律みたいなところはある。当たり前を拾う作業。
まぁ良いや。
思考の形式の話。
感覚とか直観には思考は必要とされないのがまず1つ。これを言語化する作業は思考ではない。ここで言葉をあくせく選ぶ工程は考えているのではなくて、あてがっているだけ。
この段階で読んだり読まれたりは、単に近そうな人なだけ。
なんだか悲しい歴史を思い出した。浮気されて別れた恋人さんと三年越しくらいで再会して、また付き合うかどうかとかやっている最中に、彼氏ができてしまったと言われたこと。精神的に近かったからって言っていた。なんとも空虚。それに対して僕は羨ましいと言ったけど、そういうことじゃないって言っていたなぁ。今ならなんとなく分かる。自分を制限して相手の土俵に合わせる必要はないということ。
タイムリープしたらもう少しうまくできるかもしれないけど、だからと言って、この人と添い遂げる方向には行かないだろうな。もう認識が変わってしまった。存在として現存していることが好意だと定義するなら、一生残るから、そうだろうけど。
僕の女性遍歴だいたい残っているから、まぁ皆幸せになってれば良いと思う。もう直に会うことはないだろうけど。でもこれって、定義的に現存性なのかというと微妙なところ。幸せになっている可能性という意味ではそうだろうけど。
名前はそんなに憶えていない。
つまり、人の定義は自分を通り過ぎる存在としている。どんなに頑張っても風景の一部にしかならない。でもこれは悲観もあるけれど、肯定的に捉えても良いかとも思う。
僕を通り過ぎた人僕の観測だと、だいたい幸せになっているし。
この話、割と僕の自己観の根っこっぽいな。
自分語りの意味なんて特にない。
ところで、興味の話。
何か疑問に思ったら人に聞ける人はなんとも現代的。ヒトをヤフー知恵袋みたいに遣える。でもこういう人が成功する。人は誰かの道具になりたい願望も持ち合わせてそうだし。
僕の幼少期を翻ってみると、特に聞かない子供だったのだろうなと。今でもそう。
違うのは、無差別な疑問じゃなくて、今の自分で届きそうな疑問しか疑問として浮かばない。洗練されている。
全然思考の形式になってなかったな。1つは追跡で、もう1つは開拓。追跡は自分の利に全く関係ない物事の形式を追うこと。
いまの暫定的な結論だと、僕は誰かと生きていけるような精神構造を持ち合わせていないのだろうなというところ。よくもまぁ騙し騙しで生きてきたものだ。
おしまい。
皆さんが誰かと寄り添っていますように。
おやすみなさい。