ささやか

 

 

 

「家に帰りたくないのか」と母親に聞かれたとき、主な心である「うん」と返答せず、副次的な「そうでもないけど」で答える辺り、まだまだ不自由だなぁと思った。どちらも本当ではあるけど、自分の心を考慮することに相手の気持ちを含める時点で基準がおかしい。

 

「相手の気持ちは相手が考えることであって貴方がどうしたいかの中に私の気持ちを入れないで。」

 

かつて苦言を呈されたことがあるけど、その時から一向に変わっていない模様。これこそ忌むべき相手と自分の同一化と言えそうな。どれだけ想像したって相手の気持ちなんて分からないのに。という流れで言うと自分の気持ちとはだけど。だいたいのことがきっとどうでも良いから、そうならないように一般的基準を借用している。つまり、自分の素の気持ちで誰かと関係することをとても恐ろしがっているということ。これはこれで予防線になっていて悪くはないと思うけど。

 

さて。頭の中の方が自由だと昨日書いていたけど、そうではないなと。本当の自由な思考は言葉を遣わないことであって、基礎トレは自分の非言語の理解を言語で考えられるようになっただけ。別に歩きながらでもできること。

 

言葉を綴ることはかなり優先順位高いことだと認識していたけどそうでもなさそうな。優先順位が高いのは書くことではなくて読むこと。明日は新しいご飯が入荷するから楽しみである。あと、国立西洋美術館にある絵画の写真付きの絵画の観方という本が気になっている。遠近法は窓だとか、人物画に作者の表現の苦悩が見えるとか。美しいものを見たい。

 

ところで、匿名的でない媒体を持っているのはなかなか良さそうだなと思った。匿名的でないことには責任が伴うけど、その分面白そうな気もする。今週末までに書く劇評を匿名的でない人が書いているのを見て。上手いなぁと思った。あぁいう風に書ける気は一切しないけど、そういう風に生きられるのは凄いことだと。

 

どうでも良いけど、昨日今日と仕事していて、自分の発話の語彙がとても拙いなと思ったから、もしかしたらここで書くことって現実の語彙の維持になっているのかもしれない。どれだけ発信についての言語不自由なのか。常にやっておかないとすぐ使えなくなる。いや、このポンコツが良いとも言えるのだけど。全然サボれないから。

 

 

とても自分の声が暗かった。まぁ無敵状態を自ら解除してフラットに戻したから、こんなものかだけど、仕事なのだからちゃんとせねばと思う。まぁ意識できればなんとでもなる。

 

愛媛でも雪が降ったらしい。そして積もっていた。大阪でも昼間ちらほら。できれば今年は

もう降っているところ眺めたくなかった。これは自分勝手な心情論。

 

うん、ぽつぽつとしか書けないな。フラットになると発信するハードルがとても高くなる。だいたいの言葉は頭の中の非言語の領域に押し込まれるようだ。まぁ饒舌なのが良いとも思わないからこんなもんかとも思う。

 

しかし良くないのは、ただ「する」の前に「したい」とか「しよう」とかの無駄な意志のステップが必要になっていること。調子悪いのかしら。もっと意識せずに色々できるようにしないと。雑多な感覚が多くなった。最低限はやっているけど。

 

では、おしまい。

 

暖かな夜を過ごせていますように。

 

おやすみなさい。