自分勝手

 

 

劇評が公開されました。宣伝しても良いらしい。「ルサンチカ」はとても良いですよ。宣伝の意味が違う。僕はあんまり自分の価値とかどうでも良いので、自分の文章が公になっているのは、嬉しいというより面白い。別枠でもやもやしたこともあったけど、これは書かない方が良いような気がする。たぶんあちらはもう観に行かないかなという感じ。もちろん矜持は尊重すべきだけど。

 

勝手に生きるっていうのは、相手の文脈を無駄に先回りして想定しないこと。こうやって切り離すと、世界はより面白いことになる。もともと局地的にはできていたけど、関係になると難しき。影響値を気にしないのは大変。

 

その前に。

 

今日は本屋に行くつもりだったのに現実化しなかった。予算2万か3万か、それくらいはつかうつもり。欲しい本がいっぱいある。一番大事なことは身の丈に合うこと。吸収できるかどうか。吸収率は進行形で更されている。これは自分の更新率と相関している。

 

神経免疫学的にも脳内ニューロンは成人後にも更新されるらしいし。

 

 

面白さ。

 

哲学の歴史がこのタイミングでやってきたのは然るべくだったのだろうなぁと。イソノミアの観念が想うところに近い。僕が素朴に現実で語ることがなかったということはなくて、中庸だって評されたこともあった。諸子百家には全然食指が向かない。倫理観の話は割とどうでも良い。倫理の枠って、すごく粗いから。先達を大事にする姿勢は大事だけど、この大事さは外から決められるものではない。

 

平等の観念は個人を殺すというのは良いことであり、悪いことでもある。個人であることが許されるっていうのはなかなかシビア。

 

イソノミアとは、日本語に直すと無支配とのこと。古代ギリシャの自由が奴隷に労働をさせてなりたっていた部族社会ではなく、個人個人が交換で生きていた世界。この世界では相手に差し出された価値が自分が差し出す価値が釣り合っている、とても主観的なものだったのだろうなと。シビアというのはこういう意味。社会的に決まっているのであれば差し出されるのが当たり前になる。

 

これって、別に過去の話ではなくて。というところで憲法学講義。

 

部族社会でいうと、自分より上の人は敬わないといけないという規範がある。これは法律にも根深く残っているのだけど、今はなき尊属殺人っていう罪があった。子供が親を殺害したとき、他人を殺すより罪が重いっていう。これが憲法違反だって知っているのが社会科を覚えている人。そんで、憲法14条の話で違反だって知っているのが法学部。もっと穿つと、この裁判は親を敬う観念自体は正しいものだって言っている。ただ、刑罰として執行猶予が付けられないほどに重かったから不均衡だって判断しただけ。

 

個人主義だから、親を殺すことも他人を殺すことも同じだと判断したわけではない。

 

今はもう血族に対する犯罪規定がないかっていうとそうでもなくて、一定の関係で成立したり成立しなかったりする。

 

個人的には、価値は外から決められるものではないから、勝手に血族は大事だって思うことは自由だと思うけど、それを法律が規定するのはおかしいと思う。法律のルールって一応人の内心には作用しないことにはなっているけど、決まっていること自体で内心が規定されるという文脈もある。例えば、結婚に価値があるのは国が法律婚を優遇してルールを設定しているからとか。

 

日本人の固有性なのかは知らないけど、ルールは外から来たものだっていう傾向がありそう。内側でも自分で設定できるルールは無限に近いくらいあるのに。

 

そうして、シンプルに生きるということ。

 

想い人が面白いのは、かなりさっぱりしているところ。自分にとって嬉しいから存在として残しているという。これは人を見ていないようで本質を突いていると思う。世界とはそういうもの。僕だって、関係は義務ではなく面白さを原動力にしているし。誰かが自分を慰撫してくれるとして、その誰かって自分が消費しているだけでは感。

 

いや、これで繋がる関係もそれはそれで良いとは思っている。僕が馴染めないだけで。言葉って感情を強化するから、吐き出す言葉はなるべく肯定的な方が良いと思うだけ。

 

ネックなのは、誰かと遊びたいと衝動した時に相手が居ないことだけど、別に僕は関係の中だけで存在している訳でもないから、特に問題ない。つまり、人間関係自体が余剰だとしている。

 

関係から離れたところに自分が居られるかどうかは、無支配の観念だと思われる。

 

おしまい。