じげん

 

 

ティッシュペーパーもないらしい、まぁそりゃあそうか。ではポケットティッシュはどうだろう、あるいは、キッチンペーパー、いやこれをトイレに流すと詰まるか。休みであればいちいちシャワーを浴びるとか、生々しくなってきたのでやめる。帰りに寄ったスーパーでもなかったな。11個にして下さい。売り切れ申し訳ねぇみたいな手書きの紙が貼ってあった。

 

張り紙で思ったのは、どこだっけ。店員がマスクしているのはお客様への感染を予防するためです。みたいなのあった。こんな当たり前のこと書かないといけないのも変な話。客に接しているのにマスクとはなんだってクレームでも来たのかな。言葉はもっと大事に使うべき。

 

確かに想い人がマスクしていたのは、いや、僕はマスクフェチでもあるから、いやいや。

これ見よがしより隠れているものに興味が向かう。

 

なんの話や。

 

さておき。

 

花粉症。職場で隣の男性は病院で薬を処方するくらい症状が酷いらしい。副作用で凄く眠くなるとか。目が真っ赤。不摂生がたたってそうなったって言っていたけど、どうなのだろう。許容量を超えた時に症状がでるというなら、僕は幼少期杉林の中で生きていたと言っても良いくらい自然が周りにあった。同級生の中には花粉症の人居たけど。何が違うのだろうということはとても気になるところ。これも免疫によるのかね。暖冬は花粉症の症状がひどくなるらしい。なんというか、全世界の花粉症の人の症状が改善しますように、をお祈りに加えようと思う。

 

結局は欠けているところの配分の問題かもしれないけど。

 

 

ともあれ。

 

お弁当。昨日はメインの炒め物を作りすぎて残しておいたから今日はレンジしか使っていない。ブロッコリーほんだしを塩まぶしたレンチンと、厚揚げと椎茸をサイコロ状に切っ醤油、砂糖、七味唐辛子で甘辛煮風レンチン。いつもように作った目玉焼きはタンパク質的にまるごとサラダになった。無駄に時短スキルが高まっている。

 

ところで、椎茸はきのこの中で嫌いな人が一番多くて好きな人も一番多いらしい。僕としては嫌いな人はどんな椎茸を食べてきたのかと思わなくもないけど、まぁ嫌いな人も居るだろうなとは思う。

 

ここで大事なのは、自分が嫌いなものが好きな人を排除しないこと。自分と同じものが好きかどうかで人と合うかどうかを決めることは差し支えないけど、共通項だけで生きるのは詰まらない。これを知らないことは人生の損だって言う人のことは信じなくて良い。僕も合わせて言う側だったけど、主体的になると他人が自分と違うところなんてどうでも良くなってくる。今の人間関係って主に職場しかないけど同調させようという人は全く居ない。

 

これ言い出したら、自分と共通項がある人なんてほぼほぼピンポイントになるし、共通項の中でも細分化されるから、これの話ができるくらいの意味合いしかない。そんで、共通の話題があることも特に求めていない。言葉は積み重なるだろうけど、言葉の積み重ねによって人間が近くなるとも思えない。

 

じゃあ何を求めているかと言うと、そもそも求めていないと言って良い。求めているではなくて、在ることと接したい。あ、存在ってこういう意味か。

 

存在論の前に。

 

例えば、僕は梶井基次郎さんの筆致がとても好きなのだけど、これは高校の国語の先生が凄く好きそうに話していたことから始まる。その時は檸檬の良さなんて分からなかった。その後何年かして読書生活になった時に読んで、すげぇなと思ったことは高校の国語の先生の影響なのかは不明。そうして、檸檬デートをしてまた自分史に残った。そんで、今日Kの昇天を読み始めて、この人の良さを言語化するとすれば、心象風景が問答無用に静かになるところだなと。こんなの共通項で括れない、僕だけの好きだろう。

 

という意味で、好きなもので繋がるってなんか胡散臭いよなと主体的に思う。好きなものってその人の中で個人的な思い入れがあって、誰かと共有できるものではない。檸檬デートのときもたぶんそれぞれの檸檬を楽しんでいたはず。

 

共通項じゃ浅いし、好きはもっと個人的な観念。

 

何が好きで何が嫌いかを分かったくらいでは人は分からないと同義。

 

そうして、つぶやきにもどってくる。ヘミングウェイさんが言ったのかどうかは実際知らない。小説にフレーズとして出てきただけ。

 

「何を見ても何かを思い出す」

 

端的に存在を表現した至言。思い出を蓄積することだって言っていた想い人ともとても近そう。こういう自前の、モノと自分の繋がりを感じる瞬間に人は存在になる。何を見たときに何を想うのか。かつて場所を取っていると表した気がするけど、撤回。この場自体が存在っぽい。

 

であるとすれば、こういう蓄積は自分が重くなっているのではなく、自分になっている過程でしかない。主観的に見れば、死ぬときに完成する一種の芸術作品みたいなもの。

 

自分が存在していることなんて当たり前だと観念している人も良いとは思うけど、存在の定義は哲学的に完成していない定義だから、何をもって存在としているのかって考えると自分が見えてくるかもしれない。

 

例えば、人間は何次元のものなのかって問題提起をしてみると、3次元だろうと答える人が圧倒的だと思う。では次元とはとなるとどうか。たぶん縦横高さで立体的な存在だから三次元だと言うのだろうけど、座標的に考えれば、地球は自転しているから、時間経過も加味しないといけない訳で、ここだけでまず4次元になる。そうして、次元の意味は変数だとなると、精神状態で人間は変わる訳で、物理的座標で観測できる存在ではないことにならないか。

 

僕は自分が居る位置で言っても、ここに居ることで存在しているとは思っていない。

 

つまり、人間の存在は3次元とする背後には、肉体至上主義というか言動至上主義がある。

 

では、電子世界は何次元だろうか。見えるだけで触れないと観測すればたぶん二次元だけど、本当にそうかな。自分が見える言葉を発している人間が背景にいることを加味すれば、物理世界+2次元で、本当は物理世界より高次のところに位置しているかもしれない。

 

ただの思考実験だけど、本当にそうなのかな。

 

読み終わった哲学的ライトノベルSF小説で、最後の辺りに主人公がリアルはうっすらバーチャルだと感じているって言っていて、まさにそれなと思った。

バーチャルって日本語訳したら仮想だけど、そもそも仮想ってなんだろうってなると、ご都合主義ってことなのかな。

 

この文脈で見たとき、生きるのは大変だとか辛いことが付着している。でも、共有する人が居なくなってしまって自分だけになったとき、僕が想うのは世界に対する好意だったりして、これがご都合主義という意味で仮想だろうなと。

 

想い人の存在やっぱり好きだなーとか、あの人とお茶してみたいなーとか、寂しさも楽しいなーとか、呪詛的に世界に投げるべき言葉が見当たらない。

 

汚い内心が全くないとは言わないけど、それは自分の中に留めて置くこと。誰かに発したいことでもないし。本当に汚いのかは知らない。

 

結論としては、自分の存在って、その人がそういう風に規定した範疇のモノなのだろうな。

 

ともあれ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を!