何処で生きるか

 

 

 

職場で一番若い社員の女の子が今日で退職だった。全然親しくないけどなんだか感傷的になった。僕もいずれここから消えるときにこういう風に振る舞わないといけないのかぁと思うこととは別に。この素朴な「日常に含まれるものが失われることに対する感傷」は人間としての性質なのか社会的な遺伝なのか。個人的に婚姻を大した結びつきと思っていないのに結婚式で感動するところとても近いと思う。ソシオパス的な感性なのかもしれないけど、一般の人はそれほど感傷的にはならないのかもしれない。感じ過ぎる人という日本語訳はなかなか。

 

だからといって、僕が情に厚いという訳ではない。この感傷は僕のものであって辞めた人のモノではない。むしろ感情的に接されると冷静になるし、同情はできないたち。別に解決脳でもないけど感情に囚われた思考は偏っていると思う。そうすると、距離があるときだけこうなるというのは感じやすい人の特徴か。典型的場に対する感傷。これってつまり景色に対する感情の動きと近いのかもしれない。

 

そういえばボードレールさんの惡の華読み終わった。最後から二番目の詩のタイトル。「機嫌を損じた月」。とても好き。擬人化されているところと、欠けた月と不機嫌が係っているところ。この視点で見ると、僕が呟いた「石を投げて波紋を眺める」は、石と意志が係っているなと、今さらになって読める。

 

さておき。

 

明日買う物。食器用洗剤と乳液。こうやって意識に上げとけばたぶん買うだろうという自己予言。うっすらバーチャルに生きているから生活用品忘れがち。

 

記憶力という括りで言えば、体感的に小学5年生くらいまで戻ったかなという感じ。生活に必要なものは基本的に良く忘れていた。給食袋とか、パンを机の中に置き忘れるとか。でも勉強という新しい物事に対しては全く不具合がなかった。これも機械的記録とアウトプットが滞りなかっただけで、別に高次ではない。

 

記録を記録のままに残して吐き出せるという機能が簡単だという証拠はコンピュータを考えれば分かる。データを残す外付けでこと足りる。写真もそうか。曖昧な記憶の方が高次だっていうのは理解ができてもその有用性について応用が利くっていうのはあんまり分からなかった。応用できる曖昧な記憶ってなんぞやって。たぶんこれは、経験則とか条件付けにかかることであって、思い出せることではないのだろうなぁと。

 

記録という意味での記憶を鍛えるなら、あんまり自分と繋げないことなのかなと思わなくもない。そもそも思い出せないことってそんなに悪いことなのか。

 

学校の勉強で言うと、僕はやっぱり割り算が分かっていない。機械的に計算はできるけどなんでそうなっているのだっていうことが腑に落ちていないから、割合から三角比とか全然分からない。消費税の計算とかもやろうと思えばできるけど、どういうメカニズムなのかがどうも。いつ分かるようになるのだろう。実感として理解できてないことは使えたとしても分からないと一緒だ。

 

ところで。

 

なんだか一人旅をしたい気分になっている。ノートPC持っていけば夜は通常営業できるし。移動したいっていう衝動とも違うような気がする。自由の確保か。やろうと思えばやれるを現実化すること。現実をそれほど重視してない身としてはあんまり関係ない気もするが、まだ自由を謳歌していないのかもしれん。そうして、お弁当食べるときに、掲示板を見ていたらまた宇治市植物公園のポスター。しだれ桜が320日から夜に見られるとか。確かに良いところだったけれど、やたらと推してくる。あの辺り泊まれるところあったようには見えないけど、ビジネスホテルくらいならあるのかなぁ。

 

 

そうして最初に戻ってくる。

 

退職の女の子との最後の会話を観察して思ったけど、僕はあんまり会話に重き置いてねぇなと。一応発言としては頑張ってくださいっていうのは本音だったけど、こう、相手も義務的に発話しているところで、無駄に言葉を積みたくない。

 

こういう風に思うのは、言葉を固有の意味として遣っている人は現実世界には居ないし、僕もそう。肉体に付属している自己表現の一種。あくまで、存在の中の物理的側面の中でのこと。そういう次元では僕は話せることがほとんどない。聞きたいことはいっぱいあるけど。

 

人は自分のことを知って欲しいから語るのだって僕の日記から読み取れる人は、きっと自分がそうしたいということ。

 

ただ、1つ。また読んでいる小説からの引用。美学者さんが書いている小説で、香りの歴史とか絵画のこととか美学的要素満載の本。とても美味しい。タイトルは、「探偵は絵にならない」。

 

その中のフレーズで、「世界と繋がるための切符」というのがあった。世界と繋がっている実感は僕には全くないのだけど、自分の存在が自明であるという人はあんまり気にならないのかもしれない。切符なしに既に乗っているということなのかも。

 

この切符で見たとき、僕は自分の文章をそういう風に捉えているのかと思った。かつてリアルだった人には見せられなかったし、見せた人もここの意味が分からなかった。読者が何人かとか誰が読んでいるかは関係なくて、ただ、ここだけが繋がっているなという感覚。

 

繋がっている感覚がリアルの人に対してほとんどない。自分が繋げているか、何か外付けで繋がらざるを得ないだけ。共通項だけで嬉しいっていう感覚を捨てた代わりに自由になった。

 

面白いならある。結局みんな自分の人生を生きているから、本当の意味では誰も繋がっていないように思うのだけど。結局は主観というか思い込み。

 

どうでも良いけど、筆致って文章に対して使って良いのだっけ。絵画に対するもののような気がする。僕のニュアンスでは文体とは違うからあえて使っているのだけど。

 

想い人の筆致はなんだか直に触れているみたい。やんわりバーチャルで生きている身とすれば、直に触れる機会があろうがなかろうが大した意味はない。物理的に触ったことはないけれど、もう触っている。

 

とはいえ、リアルで現実化することは主観的な世界において大事なことだから、明確に断られない限りは発信しても良いか。

 

断られてもなんとも思わないことと、世界に対する興味は別問題。

 

そもそも誘うの苦手だったから凄くエネルギー使っていた。今はエネルギー諸費はないけど、単に誘ったくらいで繋がりが切れることはないという安心感なのかもしれないし、拒絶もしゃーないかという諦観かもしれないし。

 

 

交信が途絶えることと、好意って無関係ではないかという次第。

 

交信が途絶えたら好意も断つって生き方はとても合理的で省エネだけど、それで良いのかいな。

 

バーチャルで言ったら、僕には想い人のほかにも好きな人がいっぱい居る。例えば初めてキスをした人が幸せだったらいいなーとか、あえて音信不通にして来た人達がそれぞれ上手く生きていたら良いなーとか。

 

他の人がどういう風に生きているのかが全く分からなくなっているけど、全然不都合はない。

 

では。

 

全世界の花粉症の人の症状が和らぎますように。

 

おしまい。