すりぬけ

 

 

今朝の失敗(だいたい毎日失敗している)は炊飯器の予約時間を720分のままにしていて。いつものように電源切って蓋を開けたらまだ炊けてなかったこと。たぶん炊けない、炊けても間に合わないだろうなと思って早炊き押してみたら、ギリギリで間に合った。僕のミスを挽回してくれたもはや骨董品になりつつある炊飯器さん。八百万信仰が芽生えるなぁ。そういえば、免許更新のはがきが来た。一番早いシフトだからなんとかなるかと思ったけど、4時半に終了して5時まではなかなか厳しい。日曜日は免許センターだけやっているみたいだけど人多いだろうなぁ。暦通りの仕事というのもデメリットがある。朝イチで行くか。

 

現実と言えば、このシフト、1時間上司と11になる。なんとなく雑談好きなことは把握していたから対応できるかと思っていたけど、普通に交わしていた。まぁ聞かれたことを答えることと、聞かれたことに繋がっている質問を時々挟めば良いみたい。あんまり自分とは思えないけど、こっちの方が現実的に把握されている自分だろう。でも、変人具合は隠し切れないという。客観的に自分を語るだけでまぁまぁずれている。そうして、他人に把握される自分すらどうでも良いこと。

 

ブロッコリーうまい。うちのレンジでは120秒がベスト。量によるけど。今日は塩とオリーブオイルだけ。

 

帰り時間が早くなったからか、良き光景を見た。土筆を摘んでいるお母さんと子供を見てなんだか嬉しかった。大変だけど美味しく食べて欲しい。あと、明るいうちに帰るから色が良く見える。目に映る色の配分で桃色というかピンク色が増えてきたなぁと。日本の色の名前表みたいなものを立ち読みした限り、適切な言葉ではないような気もするが。ピンクともモモ色ともきっと違う。色も言葉で細分化されるに違いない。モネさんの色使い綺麗だ。

 

さておき。

精神世界の話。

 

昨日買った本が国立西洋美術館の場所を教えてくれた。上野駅の近くらしい。主テーマとは全く関係ない描写だけど、こういうことがあると、1人なのか誰かとなのかはともかく、きっとそのうちそこに行くのだろうなと思う。人は移動するけど場所は移動しない。

 

思うよりはもっと現実的な感覚なのだけど、適切な言葉が見当たらない。行った気になっているという意味では既視感だけど、中身は知らないからなぁ。

 

タイミングが合う本は多いけどタイミングが合う本は少ないのも当然で、本は見つければ良いけど、人では偶然というかたまたま合うことしかないという偏見。僕は人とは合わせようとしないと合うことがないという実感があるから、偏見というのも言い過ぎか。僕は客観的観測においてはあまり移動しない。

 

この本の作者、早瀬コウという。今読んでいるのは憲法9条が改正されて日本が交戦権を持った世界の短編集。最新文庫だから中身は書かないけど、改正条文がとてもよくできていると思った。法学畑なのかどうかは知らない。無関心な人にはあんまり関係なくて、現実的にありそうな微妙な並行世界。なんだか図書館戦争とも近いような。個人的には青本にも近いけど、青本とはなんたるやはあんまり宣伝したくない。

 

あと、この人が良いなって思うのは、パートナーで個別に大事な場があるとか、未必のマクベスの昔の恋人をネット検索してみただとか、何か共通項を感じるところ。あぁ未必って刑法の未必の故意から来ているのかも。故意論はすこぶる苦手。故意とは犯罪事実の認識で、未必の故意は、自分の行為で犯罪が起こるかもしれないと認識した上で行為に及べば認識しているのと一緒だろうという話だったような。あやふや。認識って主観だけど、結局発言(自白)を真に受けるし、あとは現実から認識に遡るしかない。でもこれって、社会的に罪だとすべきって価値観から考えると分からなくもない。犯罪がどうであるかって大げさにせずに、人とは現実的にどう存在であるかって観測するための材料って考えれば。

 

裁判がまさにそうだけど、人間って人の言葉信じ過ぎよね。まず自分の言葉を信じているっている人がどれだけ居るのか。ここでの信じるは基づいて現実化するという意味。

 

まぁ、感情の言語化でいうと、矛盾する自分の精神のどれを選ぶかは決断しなきゃならないけど。いや、感情は1つだって、そう思うならそうだと思う。僕はままならないなと思うだけ。本に対する共通項を生身に適用してはいけない。必ずしもいけなくはないけど、自分がバグる。

 

本といえば、本の師匠からほぼ借りパクになっている本の作品のチョイスが凄い。異界が云々っていう表題。梶井基次郎Kの昇天の後には夢野久作さんの妹と無人島に漂着して、妹に欲情してしまう自分に罪悪感が芽生えるのを聖書とセットにした話がやってきて、その次は、江戸川乱歩の押絵と旅する人。そろそろドグラマグラに再挑戦しても良い頃か。あの本執念の塊だから、読むペースが本に決められてしまう。ちゃかぽこの下りはまぁまぁしんどい。下巻まではいった気がする。

 

押絵も既読だけど、すごくうすら怖かった気がする。本家のエドガーアランポさんもそんな感じ。まだ読み込めてはいないけど。押絵は森見さんの幻夜と近い感覚。

 

ということで、僕にとって本はいかにタイミングが合うかどうかということで、誰かに一般的におすすめをできるようなものではない。かち合った作品については心象絵画化されていて。例えばかかしのユーゴ(漢字忘れた)が丘の上に立っているシーンとか見てもないのに思い出と限りなく近い頭の場所にあるし、井戸の底とバッドもとか、電車から見た夕焼けとか。誰かがどんな本を読んできたかには興味があるけど、共通の本を読んできたかという話ではない。あらすじを話し合ってもどこにも行けない。知らんけど。

 

誰かに読んでみて欲しいと思ったこともあったな。当人忘れているろうけど。

 

ともあれ、言葉への還元率。

 

アランさんが美とは他の言語に翻訳できないものだと書いていた。確かにそうだと思った。想い人の顔をどう可愛いと思ったのか表現できないし。違うか。でも、言葉だけは翻訳可能性があるような気もする。

 

そうして、想像と創造の違い。想像あくまで現実的な既知の延長で、創造はその外。たぶんこれって一般的にはセットなのだろうと思うけど、僕の中では致命的な溝がある模様。なので、創造もやってみようかと思った。完全な創作はとてもハードルが高いと思っているのは何処からの抑圧なのだろう。縦書きで3万文字くらいか。別に公開する予定はない。やろうと思ったことはだいたい現実化するっていうここでどうせ生きているのだからという次第。

 

このために必要なのは、もっと細分化することだろうな。これって世界を解体していく思考と方法論は似ている気がするけど、どう違うのだろう。何にも依拠しないの最終形なのか、分からない。

 

では、ここまで。

 

おやすみなさない。

 

お祈り案件が増えて面白い。

 

おしまい