具体と抽象

 

 

 

塩昆布を使った浅漬けは色が濃くなるから味も濃く見えるけど思いの外うすあじ。昆布だけでは深みがないから七味唐辛子とかお酢とか顆粒出汁とかてきとーにブレンドしているけど。あとは、キャベツときのこと鯖缶の炒め煮。やっぱりポッカレモンは大事だ。あとブラックペーパー。鯖缶使うと見栄えを両立させるのが難しい。美味しいけど。煮物は冷えるときに染みる、大根をレンチン下処理するのであれば先に。なんなら蕪を使った方が楽。って何を言っているのだ。真面目な煮物作ってないなぁ。というか、真面目な料理をあまり作っていない。

 

さておき。

 

今日の世界もなかなか読み応えがあった。が最後に存在感を示しているのかというくらいに寒いわ雨は降るわだだけど、行き帰りと弁当時間は逃れられた。弁当時間は風がそこそこ病んでくれる。日差しがぽかぽか。依怙贔屓。あと、帰り道の良く分からない百花繚乱みたいな色の花もほぼ満開になっている。こういう世界の見方はある意味ご都合主義ともいえるような気もする。寒かろうが雨降ってようが、それそれでオツで捉えるという意味で。

 

どれだけ理不尽でもきっとてきとうに良く捉えるはず。ご都合主義で捉えられなくなるのは、自分の中身まで侵食されたとき。これはつまり自分が誰かに侵食してしまったと認識してしまうと世界が歪んでしまうということ。歪んでも良いって思えるのが自我なのか。

 

法律の話でここに書けることと言えば、やはり親子関係。個人的には刑事訴訟法の通信傍受法とか他の熱いのだけど、ともかく。AIDという不妊治療の一種なのかな、夫の障害で、第三者精子の提供を受けて出産したとき、法律上の父親は誰なのかという問題。円満な夫婦であれば問題ないだろうけど、法律は限界事例を常に考えるから、夫が認知を拒んだときにどうなるのかと考えるとなかなか難しい。だいたいの人は難しくない世界で生きているから気にならないだろうけど、今のところ子供が欲しいと思わない僕でも大変だろうなと感じる。これは素朴に生殖機能を持った当たり前の世界観で生きている人には分からなくて、ナチュラルに排斥対象にもなりうる。

 

代理母になるともっと根深いかもしれない。人には生殖機能があるのが当たり前の世界だもの。今でも生殖機能の障害って離婚原因になったような。この学者さん、当たり前の外に対してどう考えて、どう法律の枠内で拾うことができるのかって考えていているからとても良き。まぁパートナー観って国でも個人でも新しい観念をさらっと受け入れることはできないし。ルールよりも感覚の方が優位にくる。個人的には同性婚は単位で括るという意味ではありだと思うけど、夫婦間のルールが異性婚を前提としているから調整は難しいと思う。ごくごく個人的な生活においては同棲カップルでお姫様のようにちやほやされた時期を過ごしたこともあるけど、共同生活はできるだろうけど、性的なのは無理だなぁと思った。反応しないもの。でも反応することと好意ってほんとうに相関しているのかどうか。関係はしているけど、直結はしていないで良いのか。まぁ良いかなって受け入れるのは男にも女にもありそう。

 

なかなか生々しくなってしまった。でも具体的なパートナーってキラキラしたものだけでは済まないでしょう。そんなことは誰でも知っている。

 

本枠。

 

江戸川乱歩さんの後に読むと、太宰治さんの文章はとてもさらさら読める。もともとさらさらしている人だと思っているけど。さらさら読めるというのはひっかりがないっていうこと。早瀬さんは、なんとなく当たり前の世界のあり方に反発があるのではないかって思う。ブラック会社の描写がとても細やか。ひきかえ、村上さんはとても抽象的だなと。具体的に書いていても抽象的に読まれるって稀有だろう。

 

まぁこんな話は僕のうちがわの話だけど、西洋美術館の本で現代に時系列が動いていくと、どう見えるかではなくて、作者がどうまなざしているかを見るべきだというのがあった。これって、作者が世界をどう捉えているかということだけど、とても汎用性があると思う。相手が世界をどう捉えているかを見ようとすれば、相手が世界をどう語るかを見ればいい。

 

あと、使い勝手良いなって思ったのがカントさんの分析的な認識と総合的な認識。主語と述語の関係を見たときに、主語の中に述語が含まれているならば、この認識は何処にもいけない。けども述語が主語に含まれていないところには、経験っていう+αがあるとのこと。

 

ここでいう経験が一般で言う経験値なのかというと、別のもののような気がする。何処かに行ったとか、誰かと会ったということをどれだけ重ねても経験にはならなくて、そこからどれだけ認識を抽出したかがここでの経験なような。

 

で、今日のメインは、好意の扱い方。

 

想い人に対する自分の心を分析していると、具体的に好きになってごめんなさいという感覚があった。別に一般的好意だけでも、現実化されるものは変わらないのに。この話、当たり前の感覚がずれているのだけど、僕は具体的に関わった人には満遍なくうっすら好意というか興味というかポジティブな評価がある。だから、僕の中身を侵食しない限り、同じことは現実的にできる。この文脈では、僕が把握できる中身にしか違いがない。

 

たぶん鬱陶しいと思われているだろう経験則と、そうではないかもしれない素朴な感覚があるけど、だからといって、僕の好意が無駄だろうっていう認識は変わらない。

 

じゃあ何で想いが出来上がったのかっていうのも、良くわからないのだけど、親和性があるのかないのか。あんまり分析してないけど、日記読んでいても歩くのが好きだったとは知らなかったし、なんだか時空が錯綜している。いや、そんなに親和性を感じない下さいとも言ってくれないし。一言あれば世界線はズレるのだけど、何故かずらしてもくれない。

 

あと、個人的な日記が再開されていてそれも何でなんだろうって。個人的には文章が大好物だから嬉しいけど、そういうのを辞めたのではなかったのかと、むやみな加害妄想が起こる。

 

実際そんな影響値なんてないを絶対的な前提としつつ、良く分からないところで想像できる余地を自覚的に残しているのではなかろうかと思っている節もある。

 

それがなくなっても、なんにも終わらんとは断言できかねるな。要らないなら閉じるだろうな。

 

では、おやすみなさい。