意識

 

 

世界はひたすら楽しい。

 

鯖水煮缶を買ったつもりが煮付缶を買ってきていた。水煮缶以外を選ばないのは醤油と書かれていてもどんな醤油が使われているか分からないという得体の知れなさがある。パンとかコンビニ弁当とかもそう。どうでも良いときはお腹に入ることだけを気にするけど、味が追えないは嫌だなぁと。缶コーヒーもなるべく人工甘味料入っていないのを選ぶのもそのため。モーニングショットを昼も飲んでいる。そして、デカビタとかライフガードもそんな感じ。二日酔いの時しか飲まないけど。

 

要は、決めている要で決めていないのが精神状態的に一番良いということ。健康に悪いみたいな話もいっぱい収集しているけど、なんでも採りすぎれば悪いし、何かだけ食べてれば良いっていうのは宗教的。食は資本だけど、基本的には体を動かすための副次的な木出来でしかない。個人的にアルコールはそんなに悪いのかっていう変な依怙贔屓はあるけども。まぁまぁ仲良い友人みたいな距離感。オルニチンの話とかあったけどまぁ良いか。

 

 

さておき。

 

今日はとても穏やかな陽気だった。天気が良いと昼時の公園が賑わう。人の習性は分かり易き。そうして、ベニなんとかっていうモモの花が満開。思わず保存しようかと思う程に綺麗だった。それと同じくらいに、地面に咲いたオオイヌノなんとかとか、菜の花の縮小版で白い花弁の花が綺麗。個人的にはオオイヌノなんとかの深みがある青が一番好み。

 

固有名称をぼやかしているのは、ほんとに覚えていないのと、覚えているけど書きたくないのと色々あるけど、次に狙っている何冊かの中に、天才科学者はどう考えるかという本があって。名前の誤謬というフレーズ。人は名前を付けてしまうと分かった気になってしまうということらしい。固有名詞を収納しようとするから固有名詞で表現できないものが捉えられなくなる。

 

僕は物事を名前で区切ってはいないような気がする。

 

あと狙っているのは病理学とか、いっぱいある。次々にアピールしてくるから大変だ。

 

ところで。

 

早瀬耕さんの小説は、なんだか企業の闇みたいなことになっている。取引先の社員が失態を犯したから、自社の企業のイメージダウンにならないようにTwitterを監視するみたいな。僕のブログが監視対象にされたら、仕事で読む人は苦痛だろうなぁって。短文を読むことは社会人で普通の機能だから、200文字程度の愚痴とか感情論とかなら読めると思うけど、毎日2000文字は大変だ。面白い文章でもないし、例え好意があっても大変だと思われる。たぶん意志が用いられていると思うけどどうだろう。

 

割と読み手を気にしていた時期ばかりだったけど、やっとその辺りからは離れてきている。まぁ想い人の下りはまさにそれ。影響値を気にしていたら留めておくべきことばかり。ただ衝動的に書いているのかというとそれもなんだか違う気がしていて。伝達したいとか僕のことを知って欲しいとかとは別のエネルギーが働いているような。

 

 

自己矛盾という言葉はねじまき鳥クロニクルから来ているかと思うとなかなか、これを読んだのは10年以上前のはずなのだけど。

 

本題。意識の話。

 

意識の観念についてとても親和性がある記事を見つけた。意識は脳内に量子情報として収納されていて、人が死ぬとその情報は宇宙に放たれるとか。これスピリチュアルではなく、物理学者さんが提唱しているちゃんとした学説。

 

量子とはなんぞやというのは僕も人に説明できるほど分かってないけど、たぶん可能性の同時性みたいなこと。いやこれも分かりにくいか。どう書けば良いのだろう。時間とも空間とも重力とも関係ない存在。素朴な価値観としてはあんまり納得できないものだろうけど、僕には割と親和性がある。

 

意識って、観測していないと明後日の方向にいったり、経験則から全然関係ない見解を見出したりする。しないか。想起を記憶という名前に留めていると、その名前から外れたものは認識されないような気もする。

 

この話を書くのはとても難しい。意識は自分の肉体と結びついているというのが主流の捉え方だろうし。ただ、この学説だと、意識はたまたまこの肉体に収納されているだけで、肉体は意識のアウトプットを担っているだけでしかない。人間だけが意識に辿りついたけど、それは脳というアウトプット機能があったから。だいたいは自分が自分であることという自意識だけど、そもそもこの感覚ってなんだろうっていう疑問から哲学が生まれる。相対的に世界を捉えるために科学が生まれたし、世界がどう見えるかを表現するのが芸術だし。

 

この記事は今日読んだけど、昨日の日記で書いていたこの自分が一番マシっていうフレーズはなかなか親和性がある。ここから進んで思考すると、この意識ないし量子情報って、かつて魂と言われたものとほぼ同じなのでは。人の性格が肉体的な遺伝で収まらない意味はこれで説明できるような。

 

この話で面白いのは、仮に意識と肉体が別物だとすれば、どうしてこの肉体にこの意識が宿ったのだっていう基準があるのかどうか。遺伝情報は肉体の話だからちゃんとした基準があるけど、意識が宇宙に偏在しているのであれば、どうしてここに収納されているのだろう。

 

意識視点を想像すると、ここに宿って良かったわーとなっていると思う。そういえば意識が宿っている部位は微小な管のような機関らしい。パイプドリームかよってわらけた。

 

意識が自由になることと、肉体が自由になることは全然違う。

 

ここでもう1つ想像すると、なんにも物理的に知らない人に惹かれるのは、宇宙に偏在した意識が近いところにあったからかなとか。量子情報には距離も関係ないはずだけど。

 

 

まぁこんなことを内心で考えている奴とは物理的に会おうとも思わないだろう。ちゃんと物理的に求めている方がまともだし。その筋だってあるのだけど。

 

まとめ。僕に収納されている意識がたまたまこの肉体に宿って、たまたま世界を謳歌できているということはとても素晴らしい。意識が満遍なく在ったとしてもアウトプット機能はここにしかないし。

 

想い人とは一回だけ飲んでみたいと思うけど、こう思えるのもここだけのことだし、これが叶うこともなくてもしょうがない。自分以外に主体的な存在を肯定するなら、自分が思った通りに行かない世界が当たり前。

 

では、おやすみ。