記号

 

 

スーツをクリーニングに出すのを忘れた。明日出せば良いからまだ取り返しはつく。あと、本を読んでいると体温が下がる気がする。血流が頭に集中しているからからか体の感覚があまり関係なくなってくるかなのかは知らないけど。

 

買い出しに行ったら、カップルというには親密度に貫禄がある男性と女性が手を繋いで歩いていた。夫婦が仲良いのは良きこと。我が家の父母は仲良くなかったから。夫婦制度について考えることと、夫婦制度にしかたなく乗っかっているっていう人はともかく現実の夫婦がどうであるかは全然関係ない。仲良さげなのは見ていて気持ちがいい。

 

手はこの世界における外界と接する器官だから、おろそかにしていないところが見える。僕も手を繋ぐのは好きだけど。繋ぐ対象が居ないことはともかく。手の感度は世界への物理的感度と等しいから、手入れというか自分の手がどういう風に動いているかというは観測しておかないといけないと思う。

 

意識には物理世界は関係ないとは言え、インプットもアウトプットも肉体に依存していることには変わりない。

 

さておき。

 

話題はあまりないのだけど、いくつか。

 

介護施設を襲撃して何人も殺害した人が私刑判決になったとか。もちろん現行刑法において妥当な結論だと思うけど、素朴な僕の価値観としてはそんな当たり前についてはどうでも良い。

 

この人が語ったとされる、人の定義がなかなか生生しくて、考察対象だなと。コピペした方が良いかなとも思ったけど、ざっくり意訳で良いか。障害者が殺人を犯しても罰せられないであれば、彼らは人ではない。ゆえに、殺害しても殺人ではない。この論理は一貫していると思う。少なくとも漠然とした人の定義付けはしていない。

 

人の定義なんて、素朴に生きている人にとっては無関係なことだけど、これは現行法の人定義の暗部に関わってきて、なかなか難しい。ほんとに。専門的な用語で言うと、心身喪失の状態で犯罪しても罰せられないという規定がある。つまり悪いことを悪いと分かる能力があるのが人というモデルがある。

 

これを翻して言うと、悪いことをしても、それを悪いと分からない人は人ではないから対人のルールでは裁けないということになる。少年法もそうだし、民法の行為能力制度もそう。

 

こういう制度がある以上、抽象的な人って何か完全に自分のこと決められるっていう最強感がある。そんなに決めてないだろうって思うけど。

 

自分より年下は自分より拙いから保護すべきだし、教育すべきだっていう規範自体が人は自分を基準としている証左になる。相対的に人を見るってこと自体が自分と比べてのことであって、世界が自分基準。別に悪いとも思わないけど。

 

正味、判断能力なんてどうでも良い。判断できているっていう経験則の話。現実的判断はただの可能性の選択に過ぎないけど、それが積まれていくとそれが自分の証左になる。僕が欠けているのは、ここまで生きていても正解を見つけられてないことだろうな。

 

少なくとも誰かの中に自分の居場所があると思い込まないようにしたことは正解だと思うけど。誰かが捉える僕は完全な僕ではないし、僕が捉える相手も完全な相手ではない。この不完全な世界で寂しかったり嬉しかったりするだけ。

 

 

僕の観測範囲だと、人って人のこと信用してないんだろうなって思う。何かほかの証拠がないと人として見えない。

 

 

ともあれ。意識が量子情報でしかないということを踏まえると、結局この世界は自分がどうであるかでしかないという仮説が出てくる。もっと広く考えると、この世界自体が可能性の1つでしかないというか、もともと可能性としてあった世界の在り方の1つでしかないのではと思っている。

 

歴史読んでいても思うけど、ルールが細分化しただけで特に発展していないし。発展したといえば通信環境だけど、だから何が変わったのかと思わなくもない。

 

 

なんでこのパイプにこの意識が入ったのかという文脈で考えると、たぶんここは等価と思う。なんで意識が入らないといけないのかというとどんな物理的物質でもそういうものなのだって考えれば納得できる。

 

結局は、意識の物理世界の度外視性を観測できるかどうかって、個人の肉体によるっていう話なのか。僕の肉は筋肉付いた時期もあったけど、ほとんど移動しない。肉が移動するから時間が動いているという観念が良く分からない。

 

想い人に定期的に好意を投げる「いまのうち」は僕が投げられる意識はいつまで在るか分からないという意味。何かの自己で脳が損傷してしまったらもうこんなアウトプットはできなくなるだろうし、肉体的欠損でもそう。失明してしまえばここには同じように書けない。

 

という、割とちゃんと肉体を顧みながら生きて居る。

 

自分の肉体が当たり前と思う方が自分に対して不誠実と思うのだけど、どうだろう。

 

この文脈で言う、僕が人に逢いたいっていうのは、僕がこの肉で触れられる世界であって、僕がそれによって自分の価値が高められることではない。

 

他人に居場所を求めるのは悪手だって学習した。

 

それでも物理的に触りたいと思うのは何故なのか。

 

おしまい。