無警戒

 

 

朝ごはんはシリアル。久々に食べたけどまぁまぁ美味しい。昔はくたくたになったコーンフロスティが好きだった(虎のやつ)。実家の朝ごはん、トーストのときもあったしシリアルのときもあったし和食のときもあったから、割と循環させて貰っていたのかもしれない。トーストにははちみつかけていたな。甘い物をむちゃくちゃ食べていた。自販機では抹茶オレとか飲んでいたし。あれ今もあるのかな。

 

昼ご飯はめんどくせぇと呟きながら鶏肉と玉ねぎの照り焼き温玉丼。なんというか、感情に行動を左右させない試み。いや、本当にめんどくさかったしこの感情自体は許容している。自分が認める以外に昇華させる方はないから。けれども、それと行動を直結させることで自分が成り立つかというとそうではない。現実と感情の不一致を不満としていると、生きづらいことこの上ない。僕の生きづらいという感覚は感情が原因ではない。もはや生きづらさ自体もどうでも良い境地になりつつあるけれど。

 

ただ、本来現実化させるべきでない感情論を言葉にしているのも確かでどうなのだろうとも思う。これは自由とも言えるけど対象にとってはなくても良い波である。ただ、これを決めるのは僕ではないから別に気にすることでもないとも考えられる。しかしプラスになっているとも思えないという。誰かさんには暴言と評されるし、想い人には嬉しいと評された。発言者によっては完全にセクハラだと思うが、何故許容されるのかという不思議。確かに自分の満足の為の表現ではないけど、自分のために世界を味わっているという意味では変わらないような。

 

 

さておき。

 

意識の量子情報論は脳汁がドバドバ出ていて、なかなか思考が巡る。でも、これって考えてどうにかなることなのかというところ。思考実験で二次元に生きている生物には三次元を知覚できないという話がある。二次元っていうのは平面で、そこに球が落ちてきて通り過ぎたとき、二次元人は点→円が広がっていってまた小さくなる→点ということしか知覚できない。ここまでは僕も具体的に想定できる。

 

でも、量子の次元って明らかに三次元より高次だから、この物理的感覚でどこまで読み取ることができるか分からない。言葉も多分3次元より高次だからなんとかなるのか、分からない。

 

意識が人間のどこに収納されているのかというは今まであまたの人が考えてきたこと。デカルトさんは松果体としたし、近代脳科学だと意識は脳の作用の余剰みたいなことだったか。そうして、なんで物理学者さんが辿りついたのかは知らないけど、管上の極小の器官に収納されている量子情報が意識を形作っているとのこと。自分でも良く理解できていないから何回でもおさらいする。

 

意識は時間も空間も重力もないとか良いながら、この器官はエネルギーを消費しているらしい。些細なものみたいだけど、二次元と三次元の応用からすると、エネルギーの観念には収まらないものなのかもしれない。なぜ量子情報がそこに囚われているのだろう。って考えると、PIPE DREAMのときに思ったこっちの方が外れという思い付きはそんなに外れてなかったのかもとか。

 

ただ、意識が肉体なく意識で居られるかということを考えると、良く分からない。量子はおそらく世界にあまねく遍在しているものであって、人間という意識を意識できる機能を持った脳を搭載した体に収納されないとそもそもこんなものが在るということも観測できない訳で。

 

この意識が偏在へのリンクだと考えるのが集合的無意識の考え方なのかなと思うとなかなかぞわぞわする。自分からの推論だけど、人の行為って意識的な行為より無意識的な行為の方が圧倒的に比率は高い。いや、24時間全部意識的に統制していますよって反論できる人が居たらすげーなって思うけど、意識的に行為している時しか自分を観測できないというのはあると思う。だからなんなんだという話だけど、我ながら自動制御されているときはよくもまぁこんな言動しているのだろうと思う。性交渉のときとかそんな感じ。久しくないけど、良く動くものだとか。

 

この文脈でいうと、前世が分かる人とか超能力とか偏在への干渉が高いのかなと思わなくもない。共感覚もちょっと近そう。僕は別にそういうものは求めてないけど、常識では説明ができないことは無くならない以上、知覚できない存在は在るのだろうなと思う。知覚できないことを感知するのは割と素朴な機能だと思うし。

 

で、意識できる自意識と、自分の行動様式。僕はまぁまぁ現実に適用している。遅刻もしないし。これはなんでかって考えると、教育だったのだろうなと思う訳。母親は現実的な発熱がないと学校を休ませてくれなかった。中学時代毎日学校行くの嫌だったのだし、今も良い思い出がある訳でもないけど、社会とは強制的なもので内心とは全く関係ないっていうことを植え付けてくれたのは良かったと思う。この意味でだけはこの人が母親だったことは当たり。そこに愛情があったのかと言われるととても微妙で、なんというか規範的愛だったのだろうとしか。母親の役割としての愛。

 

だから僕は失踪宣告制度をどうにかして使えないかと思っている。本気で。貴方の安心感のために僕は生きていない。

 

生きる意味も難しいけれど、この肉に宿ってしまった意識ということから考えると答えははっきりしている。まず、意義はない。ただ、プログラムの本を読んでいてふと思ったのが、インデックスを構築することだろうなと。この言葉にはこの場所にはこういう思い出があるという自分だけの索引。誰かを守るとか、誰かの為になるとかそれはここの一部。

 

自分が消えることに不安があるのも分かるけど、誰かの記憶に残る、もとい誰かの索引になることってそんなに大事だろうか。不安な人で僕と関わった人はそんな心配要らない。無意識への刻印は表層的に忘れても人に残るもので、記憶ではなく記録だから。人間の無意識の容量はバイトでは量れない。

 

あと、僕は理性をモデルとした法律ルールに疑義を持っている。成熟した人間は情報を合理的に判断できるって、トイレットペーパー買い占めた大人を見てもそう思えるかという話。ある行為をする前にその行為がどんな意味を持つのかって認識して行為する人ってそんなに居ないと思うのだけど、社会的なところではそれが当然とされる不思議。もっと行為というか結果というか現実に寄ったルールで良いと思う。

 

内心が人の現実を決めるなんて普通におかしくないか。心配しているという人が何かをしてくれるわけでもないし、何かに対する同情で人が動くわけでもない。

 

もっと整理した方が良いような。言葉を発したことが即現実な訳でもなし。

 

どうでも良いけど、想い人の文章を読むと何故か生身のかの人を抱きしめたくなる。抱きしめる機会があったとして本当にそうするかは別だけど。別に想い人は自分を慰撫して欲しいなんて書いてないし、慰撫したいという感覚もそれで僕が満たされる訳でもない。でも、思ってしまうものはしょうがない。

 

ここで言う満たされるは、自分が生きていて良いのだという救済ね。

 

では、おやすみなさい。