個別的関係

 

 

電車に乗る方面に向かう道のりに毎年何色もの花を咲かす植物がある。名前は知らないけど鮮やかで花が咲き終わって葉っぱになるとその植物だけを狙う芋虫がたくさん出てきて、農薬で消毒されるけど、しばらくすると生き残った虫が我になるという一連の流れ。土筆もそろそろ終わって春の花が咲いて緑になって枯れて。この周期と自分を合わす必要はあるのかな。時節の話題はとっかかりとしては最適だけど。

 

さておき。

 

今日は良く寝た。ぎりぎりまで何度寝かしたからたくさん夢を見た。もっと良い人物出てこいよというくらい親族ばっかり出てくる。むしろこっちの方が夢なのかというくらい。どちらが夢か分からないというのは胡蝶の夢だっけ。中国の思想家さん今のところ食欲がわかないから誰が何をいったか分からない。老子孟子荘子韓非子菜根譚なら読んだけど。子曰くで始まるのは漢文で良くあったな。漢文で好きだった作品と言われても分からない。

 

まぁ特に現実と非現実が逆転していても不都合はない訳で。今日作ったもやしナムルが美味しいのは夢かもしれないし、そろそろこの肉終わるかもなという観念が付きまとっているくらい。だからといって仕事に行かないとか肉が動かないということはない。どういうバランスとっているのだろうと我ながら思うけど、あんまり囚われてないのだろうなというだけ。もっと柔らかくなりたい。

 

ともあれ。意識の量子情報の件。人間に宿ってしまった意識は何にも制約がないところから比べればとても不自由だけど、それを感じるために宿ったのかもしれないという肯定的な捉え方。魂の修行とかではなく、どんなキャラクターに宿るかみたいなある意味ゲーム感覚。そんな感覚があるのは知らないけど、どれだけ自意識が苦しくても肉体が死んだらその情報は肉体から離れるようだし。人格という定義もあまり突き詰めていないけど、人格は意識と無意識、肉体と精神の総合的な組成物で、無意識からどれだけ情報を引き出せるかというところにあるのでは。

 

そのためには、基本的に自分を肯定してくれる人を回りに置いた方がいいし、同調させようとする人からは離れた方が良いし、自分に従った方が良い。その自分は既成の価値観を吟味した後だけど。

 

僕は、自分肉体が存続する限り、どれだけの物事を読めるのかということに重点がある。ただバランス悪いから、そろそろ世界にアウトプットできることはないかなとも考えている。想いを投げることはできないから、何か別の形態で。

 

囚われると言えば、僕は想い人に執着しているのか。たぶん、許容されていると思える領域での想いであって、生活に侵食するというところまではない。場には敏感なはずだから、そこを見誤ることはないと思うのだけど、この感性だととっくに終わっているという内部意見の方が強い。だから頻繁にバグるのだろう。言葉を大事にしているのではなく、言葉に自分を投影している人なのかもしれない。だからと言って何かが変わるわけでもないだろうなという不思議。不思議。僕に対して全く重きを置いていないことは現象として理解しているけど、だから良いとも思うし。この日記を読んでいるかも特に観測していない。

 

ところで。現実的な価値観の話。なんで僕が法律に寄ったのかって僕が致命的な常識知らずだから最低限のルールくらいは得ておけよという縁だったのではという仮説。当たり前の不文律に馴染めないのであれば、強制力があるルールを習得しなさいみたいな。細かなルールもまぁ面白いけど、もっと根本的な人とはどういう存在と想定されているかというのが面白い。昨日も書いた知性とか意思とかなのだけど、とっても高尚に設定されている。カントさんの系譜なのか、いずれにせよ何かの哲学思想的背景があるはず。まぁ骨格とか占いで判断するよりはマシだけど、裁判はAIが担当した方が良いのかもって誰かが言っていたのにやや賛同した。

 

ただ、何をもって判断するのかというとなかなか難しい。行為と結果だけでデジタルで判断しても良いとは思うけど、事情への配慮はどのようにするのか。同じ殺人でも、衝動的な殺人と実父との何人も子供を産まされて、他に手段がなかったときと、この罪の重さをAIに量ることができるのか。刑法以外はAIでも良いかなという気がするけど、AIが有利に判断する情報をインプットできる側が勝つという意味ではあんまり変わらない気もするけど。

 

で、僕は社会においてあまり自由な意思を行使したことがないのだけど、不文律の世界で自己判断のみで生きている人っているのだろうか。内心ではこうで本心ではしたくなかったことをしたとき、本人の意思だってされる訳だけど、これを自由意志に基づいた行為として良いのか。自由は他人を不自由にすることではない。

 

こんなことを考えていくと、他人への最大の尊重って、関わらないことではないかという極論に至る。関係してしまえば相手を自分の価値観で制御したいと思ったり、自分の価値観を侵害されないために反発したりしてしまうから。次点で他人はどんなに近くても他人だという接し方もあるけど、そこに関係としての意味があるのかはなんとなく分からない。親しみは共通項にあるのでしょう。もしくは長さか。

 

 

この話が暗いかそうでないのかは自己判断で。

 

そういえば、狗飼恭子さんの本。なんとなく言い回しが好き。出来事には前と後があるから瞬間だけ切り取るのは危険だとか。あと、どうでも良い個人的な物語として共時性があって。

 

冒頭で主人公が人を殺す夢を見るのだけど、想い人もそういう夢を見たらしい。主人公の彼氏は知識を収集する人で夢辞典を持っているのだけど、ユングさんの論では人を殺す夢は吉兆らしいとかとんちかんなことを言っている。でもこっちのがまともか。他人の心を知識で分かったようになること。

 

想い人が、殺したことはどうでも良いけど捕まって会いたい人に会えなくなるのが嫌だったと夢の中で思っていたと書いていて、僕は会いたい人には含まれないだろうなぁって想うと絶妙な胸の痛みが想起する度起こることはどうでもよくて、せめてその殺された3人のうちの1人であればいいなと思ってしまった。あくまで夢の中で。ほんとに殺したいと想ってくれているのであれば、なるべく罪が軽くなるように配慮するけど。実際はどちらでもないのだろうけど。

 

そうして、小説の主人公も、自分の彼氏ではない人に相談して、この人にだったら殺されても良いかなって思う描写がある。彼氏ではない人はバイト先の店長であって、別に肉体関係がある人ではない。主人公には仄かな想いがあるようだけど。で、バイト先の店長の奥さんは別の章の主人公と交友がありそう。ここも肉体関係はない。京都の人ってパンの消費量日本一ってほんとなのかな。

 

こんな感じで、個人的な中身としては現実も本もいちいち近いからどちらが夢か分かっていない。

 

では、おやすみなさい。