世界の範囲(前かもしれない

昨日の

 

今日のメニューは筍のワカメの煮物と、刺身三種と、水菜とオーブン厚揚げのマヨサラダ。記憶の中にある筍の味はなんというか、煮物味でしかなかった。とても甘くて濃い。おふくろの味。今の僕の味付けで作るとても優しいというか柔らかいというか筍の本当の味が分かる。他で表現できない味。まさに筍味。

 

でも濃い味の煮物というのは分かる。子供は野菜の味何ぞ分からないし甘みを重視するから、栄養価を摂取させるためには濃い味付けにして素材の味が分からないようにしないといけないし。臭みとか苦みとか、ほんと苦手だったけど、僕は別に好き嫌いするなといわれたことはない。姉と妹がの偏食具合から相対的にという感じ。僕が一番嫌だったのは、オー157の時にキャベツがテキトーにボイルされたやつ。食感とといい、味といい、今思い出してもなかなか酷い。青じそドレッシングにやや苦手意識があったのもここ。

 

味覚も世界の一種。

 

さておき

考えていることは言語化には追いつかないけど、見せられるものはこれしかない。

 

現実世界の話。異動はやはりできなかった。一番話しやすい人が行くことになっていてやっぱりなと。そうして試験も延期。スケジュール組む人大変だと思う。

 

ところで、現実の定義って、どう考えても客観的に存在する世界ではなくて、当人が認識できる境界だと思うのだけど、どうも現実は確固とした枠だと認識しているような。今回の件で職場の人が周りに感染者は居ないって話していたけど、そんなの当たり前のことだろうにと聞いていた。

 

僕がこの事態を注視すべきことでないと思っているのは、別の要因で亡くなっている人の方が多いだろうというところ。例えば自殺者は年間3万人くらい居るらしいけど、身内にそんな人が居るかっていったらほとんど居ない。交通事故死は間だろうけど、結局身近じゃないと他人の死すら認識できない。僕は認識レベルでは人の命は軽重があると思っている立場だからこの辺りの自分が認識できる死しか死ではないという感覚はとても分かる。

 

で、凄く下世話だけど、この事態であたふたしている人を見るに、他人の死ではなく、自分に影響があるからなのだろうなという俯瞰。だから近いし現実になっている。

 

そう、現実の定義の最小の構成要素は当人が現実だとみなしている枠に影響があるかどうか。自殺とは違って感染させられたら迷惑だから他人の挙動が現実になっている。

 

まぁこんな話も割とどうでも良くて。不謹慎とか思う人は、今この瞬間に餓死している人が居ることを考えれば良い。それほど人の観測範囲は広くない。地球単位で言えば断続的に人は亡くなっている訳で。

 

で、関係とか社会とかのことは最近トピックで、やたらと考えている。

 

ここでおもしろいのは、普通の人が考えている絶対空間は、ニュートン由来のものだろうけど、このニュートンの思考は神様ありきだというところ。自分が認識している現実は誰が創ったのか、神様だからしょうがないみたいな。それを批判したライプニッツさんが世界は結局相関だって言っているけど、この人も神様を信じていたらしい。

 

最終的に、どうしようもないところを何のせいにするかということかと思われる。

 

僕が縁を重視するのは、人には公転周期があって、たまたまの一致でしかないと思うから。

 

関係も、僕は顔を知らない人との挨拶と職場での挨拶を比べると、顔も知らない人との関係の方に現実感がある。どちらも僕の現実的な行動を左右しないけど、暖かさが違う。現実の関係ってどうしてもミクロの自分が基準だから、そうなると、僕は関係しないところに向く。

 

とりあえずここまで。

 

後編あるかなぁ。