付着物

 

 

 

トッカ―タとフーガ2短調。緊迫感がある。愚図ついた1日だったけれどお弁当時と帰りはなんとなく晴れていた。帰りに見た雲の間を照らす日光がやたらと白くて、西洋絵画にありそうに見えた。西洋美術の本もそろそろ終わる。

 

最近の夢はなんだか続きものみたい。世界観が粗過ぎるのは僕の現実的時空認識ががばがばだからだろう。なにやら地元で過ごして居るのだけど、地元の同級生の娘さん登場する。名前をジュリというらしい。そうして別に何かがある訳ではないけど、知らぬ間に僕が寝ている場所に侵入してきて、胸に重さを感じ(踏まれた)、その後添い寝していた。僕が寝ている場所が何故かあけっぴろげだったのが空間のがばがば性。そうしてお母さんに気付かれてジュリは帰っていくのだけど、お母さん(誰か特定できない)に僕はここで寝ないようにした方が良いなって言ったら、まだ早いってな感じで当人に聞かれていた。ここで思ったのは、まぁ僕がではなくて、僕に会いに来る道中危険だしなぁとか。書いてみたけど、なんとも良く分からない夢だ。

 

もう1個時系列を遡った夢の方が分かり易い。親戚一同が母屋に集まっていて、僕の部屋に従妹がやってきて、ごみを探らせてくれみたいなことを言ってくる。どうやら貴重らしい饅頭が1箱なくなったらしく、それを食べたのは誰だと探しているらしい。そうして夢を見ている僕としては、僕が饅頭なんて甘い物あえて食べることはないと思っているけど、登場人物としての僕はどうやら食べてしまったらしく、見つからないうちに証拠隠滅したくて冷や冷やしている。なんとも嫌な気分だった。

 

さておき。

 

共感の話は書いてしまって割と腑に落ちてしまったというか、すっきりしてしまったけど細かく考えるとまだあるかもしれない。

 

その前に人の惰性の話。

 

これも時系列でいえば何日か前になるのだけど、このご時世で公園にある喫煙スペースが閉鎖された。それなのに、喫煙者は集まっていて、その閉鎖されたスペースの周りで吸っていた。僕もふらふらとそこで吸いそうになったけど我に返って、いや、閉鎖されたやん、と近くのコンビニに行った。この喫煙者の惰性は最寄り駅のコンビニの灰皿がなくなったときにもあったから、喫煙者の特性なのかもしれない。し、もしかしたら人一般のものかもしれない。惰性というか慣性というか。物理世界って人の観測の反映だから、感性の法則は精神にも適用されるのかもしれない。

 

本を慣性で読むというのは、個々の本を存在として見ている訳ではなく、自分の為の対象として見ているような。要は、生活は慣性でなり立つもの。これはこれで良いと思う。自分が消えるまでの一直線だから。

 

 

深刻に物事を考えているように見えるかもしれないけど、今日の考え事で占有率高かったのは、「とっても可愛い」と「とっても美味しい」はどちらが褒め言葉として価値が高いだろうと浮いた思考だった。「とっても」って何詞っていうのだっけ。形容詞を修飾するのって形容詞でよかったか。副詞は動詞を修飾するものだったような。いや副詞でいいのか。

 

ともあれ。共感の細かい話。

 

僕は厳密に言えば、共感はできるけどされたくはないという観念がある。僕の共感と他人の共感は同じ言葉でも意味が違うから。僕の共感は、僕にとってどうかという話でもないからある意味想像力の範疇。相手の立場になったときにどうかと想像することを共感と呼ぶ。だから、個人的には同情と分けている。

 

 

そういえば、社会美学で「味わう」という単語が考察されている。味覚には直観的なものと、全体的なものと、反省的なものがあって反省的なものは感覚から離れた感性的なものだとか。確かに共感よりは良い。同じく自分にとってどうかという話だけど、他人を影響下に置かずに存在として対象としているから。

 

ただ、「味わう」に自分も含めることはどうしてもできないなという感じ。自分も含めた社会の味わいなんて感じたことがない。だって、自分はどこまで行っても参加者じゃなくて観測者だ。味わうことができるとすれば、誰かの物語の中に登場したわき役としての自分でしかなかろう。これは自我が濃いからか薄いからかは不明。

 

もう少し穿つと、僕の中で人はどうしても通り過ぎていく存在という認識がある。通り過ぎられると言っても良いけど。1年後の僕が今の僕でないのと同じように、他人だって変わる訳で、そうなったとき、肉体が関係しているからという理由でお互いを阻害するべきではない。べき観念ではなく、普通はそうだろうという観念。無駄に観念が更新されない為に生活があるともいえるけど。

 

では、今日はここまで。

 

いつまで書けるか分からないけど、僕はあんまり慣性では生きてないな。

 

おしまい。

 

皆さんがなるべく無駄にエネルギー消費せずに生きていますように。

 

おやすみなさい。