せんべつ

 

 

連休もあと1日。キリキリはあまりできなかったけどよく考えることができたとは言える。考える型っておそらく有限だけど考えるための材料は人生対比だとほぼ無限。「読書する人だけがたどりつける人」っていう表題の本を見かけたけど、これに対する僕の回答は、何処にもたどりつけないと気付くことができること。何処か道中に目的を設定することができるならそこまでたどり着けるかもしれない。

 

キリキリ情報を得るより、目を閉じて自分の中にある情報を精査する方が良いのかもしれない。これを瞑想と呼ぶのかどうかは知らないけど。

 

キーボードはだいたい回復したのだけど、「i」が反応しない。母音が利かないのはキーボードとしてほとんど死んだも同然。どうしたものか。

 

さておき。

 

三つ葉が安くてなおかつ食べたかったからお浸しにした。サラダは大根とブロッコリー。道中の公園では、男の子のセットアップでお父さんがバレーのスパイクを打っていた。ハイキューを読んだ、ということでもなく、おそらく男の子がバレー部のセッターをやっているのだろうと想像。あと、小学生低学年くらいの男の子(ややふくよか)とその妹ちゃん、お父さんの組み合わせ。僕が向かうスーパーが目的地でどうやらジョギングしていくらしい。お父さんと妹ちゃんはそこそこのペースで、男の子は僕の歩くペースとほとんど変わらなくて、ずんずん離される。走っていけば何かを買ってもらえるという条件なのはなんとくやりとりから把握できた。そうしてお父さんと妹ちゃんが視界から消えてしまっても男の子は自分のペースで走り続けていた。歩いてしまって後でちゃんと走ったって嘘つくこともできるだろうに、少なくとも僕の目に入っている時点ではそんなことはない。自分に誠実な人だ。とても良いものを見た。

 

ただ、妹ちゃんは兄のことをどんくさいなぁと思っているだろうなという無駄な移入。同じく威厳がない兄の立場として。それに対して何も思うところはないし別にそんな願望もないけど、人の人格は観測された範囲でしか構築されない。

 

そういえば、この時期の植物の花の占有率の高さよ。色もそうだし匂いも空間を占有している。虫の声もデシベル高くなってきた。これを時間の経過とするかどうか。

 

そうして、識閾上下と人格の観念について。

 

人格の観念がいつ生まれたのかはまだ知らないけど、割と人類史上では最近のことだと思う。法学的人格観は人を生活関係で人をどう捉えるかとういう意味で興味深い考察対象。民法とか刑法だと、完全な人というのはある程度年齢を経て判断能力があることを指している。これは人格とはちょっと違うけど、まぁ1つの定義ではある。年配者が年少者を見下す思想が結晶化しているような気もする。

 

で、もっと抽象化した人格というか個人だと、憲法学が面白い。法律の中で憲法が一番哲学と近いから。しかし、これも国家の構成員としての個人でしかないという前置き。この人格観だと、人は物理的に存在していたか、存在しているか、存在し得るか。物理的な肉体を前提として、現在過去未来をカバーしている感じ。

 

こういうことを収集する前にも感覚としてはあったけど、収集して補強される、素朴な人観の曖昧さ。僕は人の定義をまだ決め切れていないけど、自分より年齢を経た世代を観測しても、人の定義なんてしていないのだろうなと観測される。自分に都合が良い存在が人だという認識がある人は多い。定期連絡なんて欲してなくて、自発的連絡を見るだけで嬉しい。

 

腐れ縁とはよく言ったもので、僕は腐れ縁的関係は全然要らないと断捨離して気付いた。これって多分だけど、自分の時系列の記録の中で関係した人と今関係することで自分のセーブポイントが発掘されることなのだろうな。加えて言えば危険性がないし。僕はこういう時間停止の関係は駄目だ。もちろん参加してしまえば楽しむけど、この空隙であなたは何をしてきましたかって無粋なことが気になる。時系列的なキャリアではなく自発的なキャリアの意味で。白けさせてはいかんよな。何かの為ではない行為。

 

素朴に触れる、接することができる人を人なのだとする定義はとても楽で分かり易いとは思うのだけど、これだと、人一般はどう定義されるのだろう。拡げれば生物一般にもなる。

 

これも、どこかで自分を決めるというという大人論だとよくわかるけど、道徳も倫理も結局は自分の為かよと、白ける。平和とか安心とか安全とかもそう。

 

いやはや。

 

結局どんなお偉いさんも、自分の為にどうなのかから離れられない。僕は、自分が都合良く世界を変革できる能力を与えられても何もしないと思う。想い人が隣で生活している世界線はとても魅力的だけど、その都合の良さは人格を壊すこと。人格は都合良くできない。

 

 

ほんとに欲求がない。もっと人を見たいっていうのはあるけど、これって自分がコントールできる領域のことではない。あなたはぼくにとってだれですかなんてたまたまにしかない、神様も越えた領域だと思う。

 

想い人で言えば、僕はもっと対僕用の言葉を読みたい、その立場になるにはもっと近しくならねばという欲求があったのは確か。でも、ここのところ毎日開陳されていて、凄く嬉しい。全然関係ないのか関係あるのかはどうでもよくて、想い人はぼくをとても人間扱いしてくれている気がする。この何の根拠もない感覚だけにしか頼れない世界が自発的な世界だと思われる。

 

弱っている人フェチというはとても分かる。僕はもはや全然弱れないからゾーンから外れてしまうのはしょうがないとして、かつてあなたはもっと不幸になれば良いのにって言われたことを思い出した。この前後の文脈はまだ思い出せてないから言葉通りの意味ではないのだけど、弱っているフェチではあったなと。

 

僕から見ればそういうことにフェチっている人こそ弱っているだろう思うけど。まぁ良いや。

 

オーガニックな幸せという字面がとてもいい。そもそも幸福観なんて要るのかという立場だけど、では非オーガニックの幸せとは何ぞやとか、中身が気になる。幸福感が要らないという思想の中身は、これは人生の目的にはならないだろうという意味。幸福と満腹はとても近くて、定期的に欲せられる。

 

コストを払ったから返ってくるもの。

 

僕はこういう関係は嫌だなって思う訳だけど、電子関係でも、僕を継続するコストを支払う自発性があるのか。

 

なんだかんだ、、、まぁえぇか。

 

おやすみ。