どくしゃ

 

「砂漠症」。ひたすら車でわいわい移動している。冒頭に後方で事故が起こるのだけど、運転手が人口の調整だみたいなことを言いつつ、無関心に運転を続ける。その後は、なんだかファンタジー。急降下の標識の後には道路がなくて、車ごと落ちていくとか、車の中なのにずぶ濡れで、替えの靴が片一方ずつしかなかったから替えないって言ったら、貴方はそんな人物かとしたり顔で言われたり。最後にはズームアウトしていって、世界は西からどんどん地盤が砂漠化していて、みんなが東に移動している話だった。

これが一位の話でした、って世にも奇妙な物語チックになって、2位は、「何回でも、許して」です。と、スクリーンに昭和の旅館で三脚、いや四脚机の上にブラウン管のテレビがある和室で、見知らぬ男女が別々の布団で寝ているシーン。ここに気づけましたかと、テレビの陰に女性の幼少期なのだろう女の子がジト目でこちらを見ている。この子は何を許してほしかったのでしょう。っていや怖いわって思って目が覚めた。

 

夢がおかしな方向に創作性を帯びている。もうフロイトさんの夢診断的ではないな。いや夢診断の人ってユングさんだっけ。夢は抑圧の発散だという説も分かるけど、別に夢だけではないしな。

 

なんとなく不穏な感じ。

 

さておき。

 

今日はなかなか暑かった。あんまり生活の話はどうでも良いか。どんな日記だよと思うけど、今日一日で何があったかなんて、どう自分を操作したかくらいでしかない。給付金の申請書が届いたから休憩中にコンビニで運転免許と通帳をコピーしておいて速やかに書いた。どうせしないといけない事務処理ならやらなきゃいけない思うエネルギーが無駄だから、ちゃちゃとできるようにした。もともとこんなに勤勉、というか真面目でもなかったのだけど。どうしてこうなった。夏休みの宿題も残り数日でやる人だったのに。

 

これが何故できるようになったかというと、自分のことは後発的に操作できると気づいたから。キーボード使い始めたときはそれはそれはひどいものだったし、絶対ブラインドタッチ、タッチタイピングだっけ、なんてできるはずもないと思っていた。外界を眺めると、確かにできないことはできないままで良いっていう自分像が蔓延っている。自分の性質が固定的だって決めているのは当人でしかない。でも、そこまで自分を崩す対価があるのかというのは微妙なところ。自分というホメオスタシスを崩すって、馴れないとなかなかしんどい。

 

そういえば、自炊もとてもひどいものだった。というところで植物図鑑の話。

 

副菜でピーマンの胡麻和え作ろうと思ったけど、新鮮なピーマンもないし、まだそこまで読み返してないから、まだ早いなとなり作らなかった。ふと思う。僕はこの小説に出てくる料理男子、イツキというのだけど、自分の料理のモデリングにしていたのだろうなと。薄味とかなんとか。小説の人物像をモデルにするというのは、まぁまぁある。ワタナベとか。

 

この小説で思い返すのは、共同生活の暖さとか、誰かに作ってもらったご飯の、味とは別の美味しさとか。僕はいつも遅いから、誰かにご飯を作ったことがあまりない。いまやてきとーに作っても美味しいはずだけど、この自分って自分にご飯を作ってくれた人が基礎にある。

 

温かさに飢えているということはないけど、次に機会があれば、相手のお弁当を作れるくらいのスキルはついたなと思うだけ。植物図鑑に張り合うでもないけど、イツキよりもっと安く済ませそう。たぶん有川さん自体があんまり料理作らない人なのだろうなというのが読めてしまう。

 

山菜料理はとても美味しそう。リアルに食べてきたし。僕はノビルが好きだったのだけど、どんな料理で好きだったのか発掘できていない。イタドリ、地元ではイタンポと呼ばれていた植物は生でしか食べたことないけど、今だったら何か料れそう。

 

参考は基礎でしかなくて、コピペではない。

 

そういえば、昨日の想い人と同居人さんの契約めいた関係。そもそも、基本モデルである夫婦関係が契約だから、何も悪いことはない。ルールは大事。契約は社会関係を良好にするために開発された道具だし。

 

不穏さはどこにあるのか。

 

僕が自分が自分であることを疑っているのは、本当に自分のオリジナルの部分って探さないと無いのではという素朴な疑問から。特に、感情論って基本的に何処かからの承継ではなかろうか。さらに特に怒。怒りほど使い勝手悪い感情はない。

 

どうでも良い話だけど、僕が何故毎日こんなに書き綴っているのかが解明されてきた。これって、基礎文章力というか習作みたいな意味合いなのだろうなと。本当に書きたいことができたときのための準備。

 

言葉を自在に扱うなんて無理な話だけど、なるべくそうしたいというもがき。

 

これって書いて良いことなのかどうかわからないけど、想い人の日記読んでいると何か無理しているのではないかって感じる。どこがどうといちいち言語化して良いものか。例えば、毎日にしているけど、厳密には、一日毎に編集状態か非公開にして、編集して公開することで毎日書いているようにしているところとか。

 

僕は嬉しいのだけど、どうしてそこまでって考察していくと不穏の原因に至る。

 

僕は人を双方的に見るから、想い人が本当に一般多数の中での1人としてしか僕のことを見ていなかったら、好きになる前に撤退できていた。はず。

 

客観的な情報ではまさに撤退すべきことしか読み取れないのだけど、なんか引っかかってしまう。

 

不穏さは、世界に僕が居ること。本当なら潜って観測者に専念すべきところ。

 

では、おやすみなさい。