交信

 

 

ここのところひらがなタイトルにしていたのは何故だっけ。ひらがな表記と漢字表記ではニュアンスが変わってくるし、何の漢字を当てるかで人によって意味が違うからか。惰性になっていた。

 

続けると言えば、昼ご飯の時にビジネスマンの上司と後輩の会話が聞こえた。「先週の日曜日から出勤前に1時間散歩することを続けている。起こしてあげようか。」と、喜々として自慢げに。

 

それを続けるとは言わないと内心で突っ込みを入れてしまう。続けるって、人に自慢げに語ることではなくてもっと静かに淡々と在ることではと。適切に表現するのであれば、「始めている」であって、続けている、の概念には含まれていない。いや余剰だから良いのか。余剰でない当たり前の継続であれば、そもそも続けていることが意識されないだろうし。この意味の続けるのハードルを下げ続けると2回でこの表現が当てはまる。でも歯磨きだって余剰ではあるよなと素朴に思う。子供は歯磨き続けていることを自慢げに語ったりするよな。

 

まぁ直にこの表現をされたらきっと、おー凄いですねとか言うはず。僕の語彙と相手の語彙は違うし、この行為自体も健康上良いだろうし、水を差すのも違うし。ただ、継続は楽しいことではないと断言できる。成果に対する報酬がないところにあるものだから。いや、通常は成果のための継続なのか。概念が迷走する。

 

そうか、継続も時間の概念の延長だからややこしいのか。カントさんの時間のアプリオリの話で、対象が変化しても同一性を把握できるのは「時間」という直感の型が必要だっていう記述があって、だとすれば理性が構成される段階での時間概念の形成は行間の領域かもしれないなと思った。だって変化の把握は世界より自分が先だろうと。ただ、ここから書いた方が分かりやすいはずなのに書かなかったということは、カントさんすら自分は規定値だったのかもしれないとも読める。

 

カントさんは読めるようになってきたけど、ハイデガーさんは2周目になっても、ちょっと何言っているかわからない。分からないのは、定義があいまいだからだろうなと駄目出し。確かに現存性とかもともと曖昧なものを語っているのだから、分かりにくいのは当たり前だけど、カントさんとかヘーゲルさんとかベルグソンさんとかと比較して圧倒的に分かりにくい。訳者の力量の話かもしれないけど。

 

でも、これって僕の日記がちょっと何言っているか分からないと評価されているかもしれないことと通底しているような。素朴なものさしの意味が分からないという意味で。

 

さておき。

 

ちょっと日記に戻る。昼休憩終わりに職場の自販機で水を買ってそそくさとロッカーに戻っていたら、また当たったなと音で分かる。定期的に買っているから別に運がいい訳ではない。主観的に見れば当たりが割り当てられるのが多くないかとも思わなくはないけど。そうして、また放っておこうと思ったら親切な人が当たっていますよって言ってくれて、この親切な人に良ければどうぞと言う勇気もなく、ありがとうございますって言って明日用の水を買った。少しでも話したことがある人だったらできたのだけど、自由ってなかなか難しい。

 

牛乳と梅干を買うことは覚えていたけど、卵が切れていることには気づいていなかった。そこで、きのこ三種でやっつけ白和えを作らざるを得なくなった。ここで掘り返したのは梅干しにまつわる記録。僕はずっと梅干しが好きだけど、一時期、本体の梅ではなくて、一緒に漬けられた紫蘇と漬け汁で白米を食べていたなと。あれなんだったのか。食感とか光景がやたらとリアルに再現される。今思うと、食卓は割と険悪だったのかなと思わなくもない。僕の話を聞いてくれる人もいなかったし。

 

話したいことがないのではなくて、話すべきではないというストッパーが原初なのかもと、考察。日記では自由だし。ただ、一方通行で話せたらすっきりするでもないような。

 

植物図鑑繋がりだと、この時期の植物の生命力は凄い。おそらく日に日にセンチ単位で伸びているのではというくらいのむさ苦しさ。猫じゃらしみたいな白い綿毛みたいな植物も生えている。今という時間の概念を曖昧にすると、四季の植物の推移が定点カメラで撮ったみたいにスライドされる。

 

昭和天皇曰く、「すべての草には名前がある」とのこと。これって、本当に草だけに向けた言葉だったのかは定かではない。想像するに、草という一般名詞は、国民も含まれていそう。国民という人は居ない、すべての人には名前がある、みたいな。

 

名前を知ることで世界が拡がるというポジティブな意味は確かにある。でもひねくれた解釈をすると、この観念って人間のちょろさを感じなくもない。名前を知る前と後で世界が変わるのであれば、世界は全然固定化されていなくないかって。

 

大人の定義って、名前を今以上知らなくても良いと思い込めることかも。基本的ある程度身の回りの名前を知ってしまえばそれ以上知ることなんて余剰で無駄だ。名前の認識で世界が拡がるのだから、ここで言う名前は辞書的な単語ではない。

 

僕が呼び名は関係ないっていう意味はここで、呼称で変わるほどてきとーに対象を認識していないという意味。名前を知らないものでも目に入ったら興味対象。

 

波さん向けの写真の話。圧倒的他者のまなざしだっけ。写真のことを考えていたら、一度写真展に行って鳥肌が立った記録を掘り返した。圧倒的主観的まなざしを見せつけられて。ソールライターという人の写真。写真について味が分からないのは見慣れていないからだけど、圧倒的な美って、気持ち良さではなく、自分のちっぽけさをどうしようもなく感じさせられるものなのだろうなって感じた。まぁこんなの好みの話であって、客観性の方が時流には合っているのだろうなと思うけど、主観的まなざしの写真なら鳥肌立つかも。消費者は無責任なのです。でもそういう方向性でもないか。僕はカーブミラーに移した写真が好きです。

 

あと、自分のほんとの話。

いろんなことを人に発しているけど、僕は、僕の言葉は責任をもって本心だとしている。逢ってみたいとか飲んでみたいとか、まぐわってみたいもそう。

 

でも、ほんとってなんだろうなって素朴に思う。僕のほんとは、現実化してもいいよってなったら確実に行動するってことなのだけど、他の人はどうしているのか。ほんとうよりも自己像の方が大事なのかもという想像はある。世界は当然独立しているはずだけど、自己像の中にしか他人が居ないのであれば、他人に対する言葉が本当かどうかなんてどうでもいいということになる。

 

いや、だから僕に対してなんとかしてという話ではない。僕は僕に利になる関係とか求めてないし。ではなくて、貴方の中の話。ほんとはどこにありますか。

 

僕の主観的な他人論で言うと、言葉はあんまりあてにならないと思っている。親切的な言葉とか好意的な言葉なんて、時間かけなくても語彙があればなんとでもなる。だったら行為はどうなのかということだけど、行為も基本的にはその人の主観的な目的に合ったときにしか行われないから、僕の為に行為したと思えるかどうか。

 

結局、他人のほんとは僕には分からない領域である。

 

おしまい。