境界線

 

 

自分の中で駄目だとした部分で本当に変えられないところってあるのだろうだろうか。駄目なところを受け入れてくれる人が居れば問題ないのであれば、それは変える程のものではない。というか、変える気がない。あくまで僕の話。僕の本当に駄目なところは、僕のほんとが見えないところだけど、これは変えようがない。本心が見えないっていうのはたぶん、自分に対してちゃんと欲があるのかというところだと思われる。相手を害してまで自分に従うことはできない仕様。

 

酸っぱ塩辛い梅干しが好きだけど、はちみつ漬けもなかなかうまい。うめの味はこっちの方が分かる。獣肉にあまり良いものがなかったから鯖缶にした。くたくたの茄子とシイタケで煮物。うまい。副菜は三度豆の胡麻和え。胡麻和えばかり作っているような気がする。バターを追加するか。

 

さておき。

 

昨日の人間のちょろさというは全然否定的な意味ではない。念のため。僕もこれを大いに使って毎日楽しんでいるので。あと、カントさんに駄目出ししていたけど、現代には発達心理学もあるし、脳科学だって発展しているからそもそも前提が対等ではない。今よりももっと宗教が力を持っていた時代だったはず。前提を合わせないとほんとの凄さは分からない。

 

この意味だと、時系列の自分の拙さを想うことも一緒。情報が増えただけで判断基準が同じなら、何も変わってない。青の祓魔師を読んでいて、人には3つの欲があるという。物欲、性欲、そして知識欲。知識欲は誰かより知りたいみたいな文脈で語られていて、あ、これではないなって思った。物欲と性欲についてはあまり書かれていなかったけど、おそらく相対的というか関係の中にあるものなのだろうなと。あと、解消とか快感みたいなアドレナリンに向いている。誰かが持っているものを自分が持ってないのが嫌だとか、誰かで解消するとか、誰かより知っていることで優越感を得たいとか。僕論のまぐわいだと、別に性欲解消なんて一人で楽にできるから、あえてどうでも良い人とする意味はない。疲れるし。あるとすれば、その時この人は僕に対してどういう反応をするのだろうというのが気になるから。僕がどう動くのかも副次的には気になるところ。でもそのそれぞれの反応が固有な訳もない。身も蓋もない表現だけど、あんなの学習動作だし。

 

なんだか、タイムリープ的な思考に陥っているのは、「あなたはここで、いきができるの」を読み終えたから。なかなか勢いがある本だった。リープしてお互いが恋人を救おうとする話だったのかもよく分からないし、フレコミにあった最強の恋愛小説だっていうのもよく分からないのだけど、なんとなくクルものはあった。

 

どれだけ遡っても違う道をずっと選べないのは、まぁ当たり前のこと。ここは基準の話。未来のことなんて分からないとされているけど、だいたいどうなるかは無意識には収納されている気がする。こうなると人生自体がループみたいな気分になる。あぁこうして、いつのまにか死に際だってなるのだろうなっていう時間軸が再現された。

 

未来を変えるためには、今の自分を変えるしかない。未来の未知に依存しているようでは死ぬまで変わらなかったなで終わりそう。もちろん僕の話。

 

ともあれ、あんまり潜ってもアレなので、少し現実に戻して。

 

そろそろ越境しても良いかなと思うから、土曜日辺り丸善に行く。ほどほどの思い入れと、ほどほどの自然と、ほどほどの距離感。行きと帰りで1冊の文庫本が読み終わる。確か面白そうな本を今日見繕ったから、お風呂枠にするか移動枠にするかは明日の自分が決めるだろう。

 

変化ってなんだろうなと素朴に考えると、やっぱり潜らないといけないのか。

潜ると言葉が重くなるから大変。

 

出勤しているとき、朝日はいつになっても馴れないなって思った。溶けそうになる。かといって、昼の日差しが心地良いとも思わないし、だからと言って真夜中にも生息していないし、居心地が良い時間帯がない。生息範囲がないから、誰かの生息範囲に依存していたのだろうなと。

 

かといって。楽しく生きていないのかっていうと全くそんなことはなくて、自分の変化を楽しんでいる部分もあって。他人に貼られたレッテルシールをどんどん剥がしていること。僕が自分で貼ったシールではなかったなと。

 

なんだろうな。酔っぱらったら考えることができないも嘘だし、人にメッセージを投げたくなるのも嘘。なんであれだけ投げられていたのだろう。迷惑ではないとは観測しているけど、それで何かが変化するわけでもなく。

 

誰考察でも良いのだけど、波さんにしとこうか。春さんだったら苦言を呈されそうだし。

 

波さんが僕のことをどう見ているのかというのはさっぱり分からない。のだけど、一応一定の筋はある。恋愛感情的な僕を放置したのはなかなか罪だ。好きも操作性でなんとでもなるから良いのだけど。

 

嬉しいとか存在を受け入れるとか、とても肯定的な言葉だけど、その言葉にそぐうような反応はないわけで。ただ、反応が好意の表現としている訳でもなさそうだし、どこかの日記で、知らないと発言できないって言っていたし、何か保留されているのかなと読めなくもない。

 

ただ、もうちょっと読むと、他人に消費されたくないって言っていたけど、実は消費しつつ消費される関係を生活としているのではとも思ってみる。僕のことを消費しても良いですよに対する無反応は、消費する価値がないということか、消費したくないか。

 

違いますよってメッセージが来ることはなんども夢に見たのだけど、現実化していない。言ったところで、日記も文章も読み続けますけど。好きだから読んでいるのではなく、美味しいから読んでいるので。

 

でも、こんな考察もどうでもよいこと。どれだけ書いても本当に大事なことは書いていない。

 

どうでもよくない、何があっても自分を滅ぼしても大事にできることなんてないでしょうよ。あるんだったら聖人だ。

 

僕は星人です。

 

 

おしまい。