解放感

 

 

早朝に目が覚めると雨。切なげな感情は天候のためなのかなんなのか。コンビニに行ってライフガードと水とコーヒーととろろそばといなり寿司を買う。昼はうどん。夜は育ちに育った豆苗とピーマンと豚肉のポン酢炒め、茄子とみょうがの浅漬け、フリルレタスとオクラとブロッコリースプラウトと目玉焼のサラダ。

 

明日からは時短勤務解除で遅番かつ前残と後残付き。一応弁当を作ったけど、どうしようかな。まぁ、環境なんてすぐ馴れるからあんまり気にしていない。何時に起きるかだけ。

 

未来を信じていない観念の補足。未来って未知で、確かに世界がどうなるかという意味では分かる。でも、自分が未来にどう在るかって、自分の過去と今を踏まえればだいたい予想はつくだろうという意味では、全然未知ではないし期待することもできない。軌道を変えるなら信じるのではなくて、今から変える必要がある。あと、余命が一ヵ月だったらという設定だけど、この期間に終わりが限定されることによってしかできないことなんて、ないように思う。そんなことはきっと今からでもできるし、自分の存在が継続することに信仰ちっくなものがあるような。世界の未知性には当然自分の存在がなくなることも含まれている。確率が非常に低いことがこの可能性を排除する理由になるのかどうか。なるのだろうな。

 

 

さておき。

 

植物図鑑繋がりの話で、地元の植物を思い出す。ユキノシタの天ぷらはとても好きだった。大阪で見かけるイタドリはやたらと小さくて食べづらそう。僕が知っているのは、もっと太くて、通学中に水分補給にかじるもの。秋になるといい感じのチャンバラ棒になる。

 

母曰く、花が減ってきたと言っていたけど、注意深く見ればまだまだ色とりどり。ここからは紫陽花の季節。そういえば、誰かさんに貴方はガクアジサイみたいだと評されたことを思い出す。どういう理由だったっけ。

 

 

今読んでいる小説枠。「夜が明けたら、いちばんに君に会いに行く」

青春小説で、なぜ今なのだろうと思っていたけど、ある意味ではちょうどいいみたい。例えば、世界の見え方は人それぞれみたいなフレーズが青春ぽく出てくるのだけど、僕は本当にそうだと思っている。哲学とか脳科学とか量子力学とか心理学とかもろもろを踏まえているから、根拠がない感覚だけの意味ではなく。

 

 

そうこう考えていて、なんだかもったいない青春時代の過ごし方したなぁって思う。もっと主観的に生きたらよかった。今の自分の感性はぐだぐだに過ごしていた10代より遥かに鋭い、というか、使い方が分かっている。10代とか20代前半とかやたらと眠かったのはきっと退屈だったのだろうなって。

 

誰かの場所を取らないように無駄に気を使って自分を制限する必要性なんて全くなかった。下らない。勉強も今の習慣を持っていけたら全然違う。少しずつ教えられるものだって観念を取り去って、繰り返して定着させるものだって知っているし。

 

結局人は当人しか見えていないということに気づいていた。優れているという評価がどうしても嫌だった。これって、僕がもともと優越感を原動力にできないという意味もあるけど、人が人を相対的に評価するとき、相手の人のことなんて評価していないということによる。高評価であれば自分のコンプレックスの裏返しだし、低評価であれば自分の優越感だし。この基準で生きるのが当たり前だと思っていたから感性が曇ったのだろうな。

 

もっと自分が楽しいと感じたことを突き詰めれば良かったけど、僕の世界では皆楽しそうには生きていなかったから、世界はあんまり楽しむものではないのかという設定。なんで毎日楽しくあってはいけないのか。

 

毎日発見があるし、世界は未知に満ちているし、何年後の自分とかそれどころではない。未来より今の方が遥かに大事。

 

自信がないってずっと評されてきたけど、これは関係において自分が場所を取るというか、自分の方が優位だって思わないだけ。人に譲ったところで自分は何も変わらない。使い方を誤っていたとは思うが。

 

やり直したらだいぶ変わるだろうと思う。10代の自分の体の操作性も探求したかった(スポーツ的な意味)。でも、まぁこの人生は一回だからここから始めるしかない。一般論の注釈は書かないようにしよう。僕はちゃんと僕を生きる。

 

今日取集した情報を書いても良いけど、全く面白くないと思う。社会契約論とか、利益相反とか遺言の種類とか。ベッカリーアさんは成文法としても刑法が良いと言っていたけど、言葉も突き詰めて考えれば曖昧だと思う。言葉の定義だって言葉でされるものだから、最終的には直感で共有できるかどうかみたいな。でも、刑事法のよく分からなさはこの本で解消できそうな気がする。

 

直感の話。

 

僕は日記に在るときが一番自分の本質に近いと思っていて、これを深みにはまりながら読む人には内臓を触られているという感覚がある。別に普通に単なる読み物として読まれる分には何も感じないのだけど、ある意味、現実より近い。たぶん、自分を顧みざるを得ないはずなのに。

 

覚醒に使うスプホリさんもまぁまぁやべぇ。

 

もっとやばいのが波さん。繋がりが読めるように書かれたらずるいわ。消費者で良いのに、その立ち位置を許してくれない。自意識過剰であった方がむしろ良いのだけど、時系列で言えば、今の方が美味しくて困る。ほんとに誰とも会いたくないんですか。

 

主観だと、僕が留めているというよりは、今に留められているのかなっていう観測。僕は別にきっとどこでも書けるしどこでも生きられるので。

 

読まれているようで読んでいる。自分の余生より、人がいつ居なくなるかの方が刹那的には大事だと思われる。

 

では、おやすみなさい。