感謝

 

 

遅番の良いところは月を眺めながら帰ることができることだなと思いながら帰る。お月様は残念ながら雲隠れしていたけど、日が沈んでいる後のまだ明るい空の雲も美味しい。カラスの丘だった開発地を横切るとき、人が集まってやたらと空を眺めていた。何のための密かと思ったけど、どうやら夏の花火大会が中止になることに伴って6月に全弾人知れず放つとの噂で眺めに来ていたらしい。通り過ぎるまでに音とか鳴らなかったけど、住民が眺める方向の街並みはとても煌びやかで、花火がなくても十分に綺麗だった。世界はこんなに綺麗で良いのかな。

 

ここのところ潜るというバラすという感覚に近い。

 

二度寝の時の夢。何か妹と言い争っていて人間が合わないから消えるわって言った瞬間に瓶が割れる音で目が覚めて心臓がバクバク鳴っていた。月曜日は瓶と缶のごみの日。瓶が割れる音ってどうも馴れない。別にトラウマ的なものはないはずなのだけど、大きな怒声と同じ系譜なのかなぁ。まぁ、合わない人への対処法は、その人の世界から消えること。だったら、誰が合うのかもよく分からないけど。

 

そうして、ポケットWiFiだけ持ってきてスマホを忘れるという体たらく。昼に昨日の日記の最後の方をごっそり削除しようと思っていたのだけど、書いてしまったものは仕方ないという啓示か。今日の昨日に対する違和感が、昨日の直感より優位ではないし。不快感が生じるかなとも思ったけど、それに対しては僕が気にすることではない。読まなければ問題ないはず。人の感情に影響するかもしれないなんておこがましいこと。そんなこと知ったことではないで良い。少なくともここだけは。

 

昼休憩の時に頭が良くなる系の啓発本をちらっと読んだ。メンタリストさんめちゃくちゃ本書いている。それほど深いこと書いているような気はしないけど、考える時間を作るというのはなんとなく分かる。ぼーっとする時も目的をもってするとか。これを踏まえると、うとうとしている時と漫画読んでいる時以外、ほとんど考えている。考え事に使っている時間の方が、生活時間より多いかもしれないくらいに。仕事の時は仕事のことを考えているし。

 

考えるって何か難しいことをするっていう観念だろうけど、そうじゃなくて、自分の五感から収集された世界を意識化することだって十分考えるの範疇だと思う。例えば、通り過ぎるだけだった景色とか味とか感情を拾い上げて言語化してみようとするとか。なんでこれが目に入ったのかとか、なんでこの味が好きなのだろうとか、なんで自分はこの時こんな感情を抱くのだとか。これらは自分の定義に含まれているものだから、意識にの訴状上げないと考えることはできない。

 

これは、後付けの言語的理由付けではなくて、単なるスケッチ的思考。基本的には感覚に理由はないと思う。がんばったらありそうだけど、自分のブラックボックスまで解体しないといけない。

 

日中は昨日の日記で自分の肉が滅びる可能性的未来について考えていた。自分が居なくなった後の世界に対する想像。

 

僕のパソコンのパスワードオートコンプリートだから、ちゃんと毎回パスワードを入力するように準備した方が良いか。いや、どうでも良いなって。僕は自分が死んだ後に人にどう思われようがどうでも良いし、生きていてもそうかもしれない。別に個人的文章なんて残していない、こともないな。紙媒体で万年筆の練習のための日記はこの部屋のどこかにある。これも見られても問題ない。

 

結局人は当人の中でしか相手を見ていないとの繋がりだけど、僕と現実でしか関わってない人がこの日記を僕の死後に見つけたとしても、全部読もうとはしないだろうなって想像できてしまう。告別式とかでは悲しんでくれるだろうし、あいつはあぁだったみたいに肴にはするだろうけど、僕の中身を個人的に読もうとする人はきっと居ない。他人が自分の世界から居なくなったときにその人が生きていたしても、興味はないでしょう。肉体が滅びたという契機で視点が変わるわけでもないし。老後の暇つぶしならあるかもしれない。

 

読むってまぁまぁエネルギー遣う。

 

いや、これで良いと思っている。そんなもんだっていう意味でも、自分の生活に集中しなされっていう意味でも。

 

僕が人の自分に接している部分よりその人の中身が気になるのには理由がある。父親がほとんど本音を語らずに死んでしまったこと。父親の日記が発掘されたとしたらむちゃくちゃ読みこむと思う。というのも肯定的な意味じゃなくて、父親は僕を含めた家族を憎んでいたのかもしれないと思っているから、それを知りたい。そんなの知ったところで罪が重くなるだけだけど、そんなことは関係なく。一番近いはずの家族が信用できずに酒におぼれて世界から居なくなるなんてなかなか悲しい。ほんとうに自分を生きられなかったのか。

 

僕の遅さの原初はここにある。一生悔しいのだろうな。なんだか止まり木傾向だったのも今思うと、これの代償行為なのかもしれない。だとすればこの傾向で僕が救われることはないな。

 

思いのほか内臓ぶちまけて悲しくなってきた。でも、内臓自体には感覚はない。これだけバラして人は生きていけるものなのか。

 

世界の楽しさ美しさはある意味ここの反発でもあるけど、もっと現実的なのは、母親の方。口を開けば呪詛とか支配とか疲労とか。これも今想うと呪縛があったからだとは思うけど、だからと言って、直接死因になったことは変わらない。母親が父親のことをもっと慰撫できていれば父親は酒に逃げることもなかったはず。楽しむ酒ではなかった。だから波さんのお酒の飲み方が気になるのか。

 

とうの母親は、家族関係から解放されて自適に楽しんでいるという。気楽なのはいいことだと思うけども、母親が父親にしたことは一生忘れない。

 

僕の懸念は、どっちの因子も持っていること。こんな奴が現実的関係を楽しめるべくもなかろうと。あと、世界を楽しんでいるともうすぐ世界が終わるんだろうなと思ってしまう。楽しむとか肯定されることに一生馴れない。

 

と、僕の根深さを解剖した後で、ほんとの自分なんて幻想だという仮説。

 

たぶん、確固とした自分が在って時と場合によって自分を変えているという感覚なのだろうけど、きっと全然違う。感覚の中に在る自分を現実化させないのであれば、それは一生自分ではない。思っているけどしないとか思っていたけどできなかったとか単に観念の中でぶくぶくさせているだけ。言語化から考えても、言いたいことが言えないのであれば、それは現実としての自分ではない。そういう意味の中身には興味はないかも。ちゃんと自分が見えている人の中身が好き。

 

僕はどこにも書けると言ったけど、他のところで言語化される自分とここでの自分は違う。それは、肯定も否定もせずただ観測している人が居るから。

 

もっと言うと、自分のほんとうがあると仮定しても、それは相手によって変化するものでしかない。相手が見える範疇でしか自分は居ないから。

 

ということで、ここの僕は僕の本質に近くても誰にも現実化しない自分だから、結局架空でしかない。

 

では、読んでくれてありがとうございました。

 

 

おやすみなさい。