現実

 

 

無駄に官能的な夢を見た。特定の誰かではなくて、女性性の塊みたいな相手。面倒なことだ。ここについてはこれ以上書かない。下ネタはあまり好きではないし、そういうんじゃない。

 

これのせいなのか、なんだかあんまり調子が出なかったような気がする。楽しんでは居たけど、眠気とかが凄かった。まぁ生活っぽくはある。

 

今日の月はぼやけていたけど、これはこれで綺麗。20時と8時のどちらが洗濯して迷惑でないか。個人的には夜はあんまりうるさくない方が良いかなと思ったけど、0時くらいに回す隣人を考えると夜の方が良いかもと思って。仕事が終わりで急いで帰って回した。隣人基準でいえば、今日の6時くらいに掃除機使っていたからなんの基準にもならないのだけど。

 

急いで帰るために、ちょっとだけしか時短にならない電車に乗ったのだけど、人が多くてびっくりした。いや、素直ではないな。イライラした。変わり身早すぎだろう。これはまだ良い。その後の人混みの歩く速度の方がもっとイライラ。我先にってそんな速度で先頭切っても特に早く出られるわけでもなかろうって。電車の中で前に歩くみたい。目的地に着くまでの時間は全く変わらない。僕は例えば月を眺める為にゆっくり歩くとか、一緒に歩く人に歩幅を合わせることには何も思わないのだけど、こういう無感覚というか、無自覚がなんともくる。

 

でも、別に赤の他人に許容範囲を拡げる必要もないんよね。僕は別にいい人ではないし。イライラする自分も自分の一部。イライラしたところで、暴動したりしないし。

 

あと、米が残り一合弱で、今日買わないといけないなって思っていたのだけど、精神心的食糧も買うから、重量的にどうしようかと考えた。Pythonの入門編じゃ2周しても具体的にイメージわかないから、同じ著者のアルゴリズムについての本。当然精神的食糧の方が優先されるから米は明日だろうなと暫定的に決めていた。けども、2キロくらいだったら筋量的に許容量だってことだったから、「晴天の霹靂」という米をタイトル買いした。6缶パックビールとか2リットルの水とか提げて毎日15分くらい歩いているからか、腕の筋量は減らないらしい。ピーク時はもっとあったけど、僕は自分の肉の重量は必要最低限あれば良いと思っている。

 

という、肉体に付随した生活観。とても日記っぽい。精神世界で思考するためには肉体世界も最低限ケアというかメンテナンスしとかないと。毎日のようにお酒飲んでいるけど、思考できなさそうになったら優先順位的に飲まなくなるだろうな。

 

人と話すためにお酒が必要だというのは、確かに僕にもある。だって素面だったら話したいことなんてないもの。厳密にいえば、相手について思ったことをあえて言葉で語ることに必要性を感じないということ。思っていることはいっぱいあったとしても、それを関係の中でどれだけ言うのかとなると、肯定的言葉であっても煩わしい。でも、これは、外向性がないっていうのとは少し違うと思う。

 

ところで、マスク依存症の女の子が主人公の物語の話を読んでいて思い出したこと。本音をずけずけ言っていたことで痛い目をみた主人公が、人から良く見られるために愛想笑いを身に着けて社交的に振る舞うようにしていたのに、クラスで目立つカッコイイずけずけ言う男の子に大嫌いって言われて、云々かんぬん。話の流れとして、本音を語っていた頃に男の子は女の子の素直な姿を見て惚れて見習っているのだろうなということみたいだから、はよ思い出すシーン来いと思いながら読んでいる。こういうのは分かっていてもワクワクする。

 

思い出したのは、人が自分に見出している人間像ってたやすく更新できること。人格的に疑われるなんて、自分の前髪具合の機微なんて自分しか分からないということと同じくらいに他人は気にしていない。これって他人は自分のことしか見ていないからの応用なのだけど、当人の世界から見える他人の像が更新されたとき、あぁそうなのだというくらいにしか思わずに、認識が塗り替わってこっちに対する対応が変わるだけ。

 

僕の例だと、基本的に逃げるけど、これって、あえてその人に自分を出すまでもないっていうことに過ぎない。関係せざるを得ない人に対しては必殺音信普通を覚えたから、母親ですらおっかなびっくりで接している感が見える。

 

これをさらに応用すると、自分が想っている自己像もどこまでかは分からないけど塗り替えることは可能になる。自分は何をもって自分としているかの最低限をバラす作業は必要だけど。

 

どうでも良い人に自分のほんとうを誇示することで何が得られるのだろう。仕事であれば仕事上の立ち位置を陣取る交渉は必須スキルか。

 

外向性と内向性も僕にはよく分からなくて。外向的な人がウェイウェイやっているとき、とても内向的だと思う。というのは、自分の延長としての他人との共通項でしかないような。内向性の中に、他人は他人だって認識があるのなら、ちゃんと外を見ているだろうし。こんなのある意味言葉遊びでしかなくないか。外を自分の為に収集できるのが外向性と捉えてもなんか違う。

 

 

波さんの話をしたいのだけど、なかなか難しくなってきている。焦がれるとかそういった話ではなくて、解剖論とか距離感とかそういうこと。

 

基本的に矛盾しているのが大前提だから。別に整合性なんてなくて問題はないのだけど、どういう風に認識すれば良いのかっていうのがどうも分からない。僕はこう認識しているに明確に否定してくれたことって、どうでも良い一回きりだし。それは私ではありませんよって。

 

人格を疑われることが発言できないって書いていたけど、この文脈の系譜なのかも分からない。僕は決めてないし、人格の欠陥の可能性についてはいっぱい投げたし。

 

決められてなんぼの人格論から言えば、そろそろ何か決めてくれてもいいのではという苦言。あなたは馬上の使者にはなりえませんが良いな。

 

おしまい。