日記論

 

 

 

今日の夢はほんとに面白過ぎた。人がいっぱい出てきた。出てきて欲しい人も。あんまり楽しかったから官能的でもないけど内緒にしておく。

 

帰りに見上げた満月は昨日とはうってかわって優しい色だった。雲のレースがかかった淡い黄色。光量が抑えられて完璧な輪郭がはっきり見えて綺麗が余計に際立つ。

 

もう金曜日。とはいえ今週は明日も仕事。一日残業扱いだけど、上司1人と僕1人。なかなか面白そうだと思っている。とはいえ、今日より2時間早く起きないといけないから、何を削るかという生活の話。

 

平日の動きとして、家に帰ったらコーヒーを飲みつつ鼻歌唄いながら、1時間程法律書だけを読む。そのあと音楽聞きながら20分くらいでお風呂をためながら夜ご飯兼弁当を作る。主菜と副菜とサラダの3品。そうして、お風呂でもう一時間くらい読書。ここにも法律書はある。そのあと日記を書きながらご飯。この工程の中で6缶パックビールが消費される。どこを削るとなると最初の1時間だった。あんまり優先順位高くないのかと自分に対する疑問。

 

これって、別に自分がそう決めているからそうやっているとは違う。確かに自分が自分に成るために必要なのは自分で在るという認識より、自分が何をしているかに自覚的であること。まぁここが完璧にコントールできたら、未来はほぼ自在になるだろうから、超人の域である。

 

日記の話。

 

どうしても合いそうにない人が居て禁止リストに入れてしまった。いや、普通に外向的で社交的なコメントをくれていただけだから、邪見にするのもどうかと思ったのだけど、どうしようもない。僕はここで愛想良く過ごしたくないし。おやすみなさいという僕の記述に対していちいちおやすみなさいってコメントする時点でまぁまぁ駄目だった。そんなコメントを僕の日記が求めていると読めるのかという意味。決定的だったのは、昨日の、恥ずかしくなりそうだからやめておくという僕の主観的な記述に対して、恥ずかしくないですよって何目線か分からないところからコメントされたこと。そんなこと当たり前やがな。書くことが恥ずかしいのであって、読まれることが恥ずかしいとは全然違う。

 

僕がズレているだけだけど、挨拶で交信したいのなら他を当たってくれという感じ。最近新しくコメントしてくれた人は、僕の日記を読んで自分がどうかっていうコメントをくれたのだけど、こういうのが好き。ほぅほぅってなる。

 

勝手に読んで自分の中でぐるぐるさせるのは全く問題ないけど、見た徴として、てきとーにマーキングしていかれるのは嫌だという話。僕はそんなことされても美味しい文章書いている人にしか興味向かないので。文章型SNSってそれでしか相手のことが認識できない。

 

あぁちょっと嫌な文章書いてしまった。でも相手も大したことではないと認識しているはず。認識の格差よ。

 

ところで、世の中には日記専門店というのがあるらしい。日記を寄稿していて定期的に他の人の日記も見られるってどんなシステムだろうとは思っていたけど、ちょっとインターネットで飛んでみたら辿りついた。

 

確かに面白い。今度東京に行ったときに寄ってみたいと思った。下北沢は位置的にどこにあるかは知らないけど、まぁなんとでもなる。店主さん? のつぶやきもさらってみたけど、方向性もやや近そう。日記を書くことで日々の中で分かることと分からないことがはっきりするとか。

 

ただ、僕は月日会に寄稿したいとは思わない。どんな人が書いているのだろうとはとても気になるけど、僕はあえて自分の日記を他人に見せたいという欲求は全くなくて。あえて見せるとなったらもっとまじめに書かないといけないだろうし。ここが真面目でないという意味ではなくて、真面目な日記ではないという意味。

 

そもそも論だけど、僕は日々の記録の継続として日記を書いていない。むしろ、やめようと思えばいつでもやめられるから結果的に続いているだけ。夏休みの宿題の絵日記は大嫌いだったのは嘘みたいなほんとの話。ほんとの意味で公開用の日記は書けないのだろうなぁ。

 

いつでもやめられるという観念は僕にとってかなり大事なこと。変な話、肉体的な生存もこの範疇。やめられるから続けられるのは逆説的だけど、これこそが自由だと思っている。自由にはそれをしなくてもいいということが当然含意されている訳で。

 

ほんとうにどうしようもなくなれば世界を閉じれば良いんじゃないって思うことで、ほんとうにどうしようもないことってなんだろうということに思考が向かえる。

 

あと、日記の定義として、その日のことに区切られるのだろうけど、僕はその区分けで書けないし。日の区切りなんて恣意的な道具。

 

例えば、この人と雑談するの楽しいなって今日思った。かわいらしいと評するのはとても失礼だけど、年齢は関係なくそう思うことはしょうがない。ちゃんと会話してくれる。ちゃんとした会話っていうのは自分にとっての相手と会話するのではなく、相手のことを肯定すること。もっと言えばちゃんと相手を相手として捉える。

 

そうしてここから、中学1年生まで遡って、僕って人と話すの好きだったなってことが発掘される。とても外に開いていた。

 

この発掘ってきっと日記の範疇ではないと思う。どんな語彙でもどんな文体でも良いとのことだけど、きっと一日に限定することは最低限なのだろうなって。

 

あと思うことは、人と直に関係していたら日記を書き続けることなんてできないだろうということ。あくまで僕のことだけど、誰かと会うのはだいたい夜しかなかろうし。ただ、別に日記が途切れたところで、優先順位のさらに上位があったってことだし、特に何も問題がない。

 

となると、なんで日記を書き続けたいと義務的に思う人が居るのだろうという疑問になる。続けたいなら自発的に続ければいいだけではとか。良くわからないけど、他律的に書くってあんまり精神衛生上良くない気がする。

 

とはいえ、波さんが僕に観測できるように日記を継続して書いてくれているのはこの他律があるからだろうし勝手にほくほくできるから主観的には問題はない。けど、本当に自発的に書きたいものなのかとなると分からない。

 

主観的に見て、なんでこんなにいちいち観測したいのだろうの意味も分からない。

 

なんだか、たかが日記だけど、考えていくと深いな。

 

では、おしまい。