黒い素朴

 

 

こんばんは、今世。

 

定期的にバランスが崩れるのはいかがなものか。なんというか、本来は別に外に出るものではないものも言語化すればわずかな波紋でも大きくなるみたいな。見つめる鍋は煮えないの逆バージョン。わずかな気泡すら大げさにしてしまう。

 

最後の方は当たり前のこと。要らないのは知っているし、忘れられることが寂しいのはおかしなこと。観測圏内から離れたとき、相手が自分のことを覚えているかどうかなんて知ることはできないし、そもそもそんなことに自分が価値を置いているとも思えないし。もう少し言うなら、主観的に覚えていることよりも、意識できない領域で影響している方が深く根付いている。見つめる鍋の順バージョン。残りたくないという主観でこれが寂しいと思うはずがない。

 

では、何が寂しかったのか。

 

さておき。日曜日は日記を非公開にして、ゆっくり自分を生きていた。漫画アプリで1万円の課金。いっぱい使ったけど、単行本22冊だからこんなもの。ワールドトリガーを最新刊まで一気読み。漫画まで紙媒体で買い出すとキリがない。この漫画のイメージは静かで知的。よくよく考えればグロいのだけど、うまく出さないようにしている。

 

ゆっくりだらだら生きるのも健康的で良いとは思ったし、漫画も好き。他にも無料の枠内でいっぱい読んでいる。けど、なんだか物足りないとも思う。認識を破壊するほどの威力がない、というか、やはり娯楽の範疇よねと。

 

娯楽はもちろん大事で何処かで非現実に浸って息をつくことも必要な人には要るのだろう。姿勢の話だけども、僕は本に対して娯楽とはしてない。別に仕事でもないし、生活でもないし、だったらなんなのだ、だけど、うまく言語化はできないところ。ふと浮かんだのが真剣勝負とか存在意義とかだけど、これもあまり適切ではない。まぁ、真面目には読んでいる。素朴な目で読んでいるか、とか考えだすとややこしいけど。

 

そういえば、日曜日、徒歩5分の古書店に行ったら、ちょうど岩波文庫版カントさんの判断力批判しかも上下巻セットがあって、やはり期待しない方が僕の人生うまく求めるものがやってくるのだろうなぁって思った。

 

期待ではないけど、1回だけ、願いは叶うというバグ現象が起こったから、経験則が邪魔している。もう流石にないはず。

 

判断力の話だけど、カントさんの序文曰く、純粋理性は経験の前の認識能力の話で、これは悟性という。これには単純な快不快みたいな感覚は含まれない。ただ、広い意味で人間の理論的認識には、判断力と理性も含まれる。そうして、判断力は、悟性と理性の間にあるもの。

 

これだけでは良く分からない。カントさんは感性という言葉を出さないけど、悟性と感性ってまぁまぁ近そう。感性をどういう風に分類するかが判断力だとすればまぁまぁ分からなくもない。感性的快をどう一般項に昇華するか。

 

ほんとはこの一週間で日記を書かずに、この上下巻を一周してしれっと書くのも良いかなと思ったのだけど、あの文脈だと観測圏内から離れることがいつでもできるだからどうも違うな、と。本当は、いつでも日記を書くのをやめてここで存在しなくなることができるという文脈だった。

 

日記を続けなくてもアカウントが生きていれば存在していると認識できるのは、その背後に生身のその人が居るということだろうけど、認識できない人をどうして存在していると思えるのかと考えると、もう既にあんまり3次元的に人を把握していないような。

 

あくまで、二次元と三次元は乖離したものだという感覚も分かる。

 

ただ、では、本当の自分はどこなのかと掘ろうとするとなかなかややこしくなる。僕の暫定的回答としては、本当なんて朧でしかなくて、それぞれの時系列とタイミングと次元で本当ぽい自分が存在しているだけ。だから、自覚的な自分の軸を前提として世界を構築している人って凄いと思う。いろんな意味で。まぁ確かに自分には軸があるのも分かるけど。

 

そんで、僕があの日記でほんとうに寂しいと思ったのは、美感を共有することが分からない自分に対して。確かに、綺麗なものを見たとき、あぁ誰かが今隣に居たらなって思うことはあるけど、僕が感じた美しさとまんま同じものが共有されるとは思わない。ということは美を要請している訳でもなく、変な話、この他人は僕が見た美に何を見出すだろうっていう興味が好意と繋がっているだけ。なんて寂しい奴だろうと我ながら思った。

 

ここでの会話は、お互いの美を否定せずに、自分が感じた美はどうだったか良いな。

 

綺麗っぽく書いているけど、要は、他人は何の原動力にもならないということに等しい。

 

誰かが僕の為に何かしたとしも一切返そうとは思わない人格。期待外れ野郎。

 

 

と、すっきりブラックになった人格から考えると、波さんの言はいつ実行されるのだろうと俯瞰される。僕はさんざん誘ってスルーされたからもう誘えない。なんてことはないし、単なる社交辞令でしたでも良いけど、ちゃんと本心の言葉を使っているように読んでいる。

 

いつ飲んでくれるのだろうなー。

 

 

存在意義とか生きる意味がない中でどれだけ自分ができるのだろうというのが今世の観察対象。もっと黒く生きよう。

 

では、あんまり無理していませんように。