いただきます

 

 

とても穏やかな気分。

 

 

今日も日記食べログから。

ログではなく読んで思ったことだから、コメントではなくもはや僕の日記だけど。

 

喧嘩ができるというのはとても良いこと。これも個人的な見識だけど、僕は喧嘩が全然できない人なので。喧嘩ができるって自己主張しても良いと思える相手である訳で僕が駄目だったのはここなのだろうなぁと思った。嫌なことは嫌と言っていい。

 

会話と文通について。

 

僕も会話ベタを自認していたし、おそらく現実的に関係した人のだいたいが口下手だとか無口だと評価しているはずだけど、そうではないんだろうなと仕事していると思う。伝えないといけないことを伝える発話は楽しい。たぶんスピーチとかもいける。問題はそもそも自分について具体的な相手に伝えたいと思うことがないことと、無駄な会話が好きじゃないこと。日記には書けるけど、僕は日々の体感を具体的に人に話すことに快はない。

 

ともあれ話すときはふつうに話せる人だった模様。自分のことですら未知がいっぱい。

 

あるかないか分からないけど、波さんと飲む場があったとしても、別に会話には重きは置かないな。何も話さなくて良いですよ。この場を現実化したかっただけなので言いそう。姿を眺めて、そうそうに解散してそれで良い。

 

文通についてだけど、日記の印象は省略して、個人的な印象。僕はここをなんとなく文通めいた場だと思っている節がある。典型的なものとは全く違うし、別にどちらかが発信をやめても何も変わらないけれど、理屈で考える頭が捉えているものでないから。

 

文通が具体的にできるかと考えると、僕はかつて手紙をいくつか書いていた時系列がある。その時も無関係なことばっかり書いていると言われていた。拝啓で時節の挨拶をするのではなく、書いている時点の自分が感じた今を冒頭文にするとか。

 

あと、先生の話。僕もその人好きだと思った。残念ながら現実的にお医者さんにかかったことがないから、具体的な経験則にはないけれど。

そうして、先生というフレーズ。今の仕事で個人的に先生と呼称している人が居るのだけど、その人に対して、現実的に先生と呼ぶ後輩かつ年上の女性がいる。なんだかすごく嫌いな人格。仕事で手を抜いているのも分かるし、利用するための尊敬的呼称なのも見えてしまう。この人と同期はまぁまぁ似た系譜なのだろうなって勝手に分類するのだけど、やっぱり、どれだけよさげな言葉を使っても、使う人によるのだろうなと思う。饒舌な人とか人を持ち上げることしかしない人って、自分を守るために言葉を扱っているのだろうなって。

 

言葉に意味を含めるって確かに現実世界では難しい。ここでいう意味は言葉の定義ではなく、定義と人格がちゃんと一致しているかということ。誰も見ていないところでも礼儀正しいのかどうか。

 

先生は雑談にも応えるし発話数もとても多いのだけど、僕の観測だとどうでも良い人と会話するのかなり嫌いなのだろうなって読んでいる。表層的な部分でしか話していないような。でも、変な話、素朴に考えると、会話に馴染むのは表層的な部分しかないとも言える。

 

あぁこのままでは書き逃しそうだから、日記への感謝。内部で色々波打つ感情も含めて、考えることができるのは、日記が更新されているから。これはとてもありがたいことだろうなと再認識すると、穏やかな気持ちになる。あんまりノイズにならなきゃいいなと思うけど、そんなことは不可視。僕にくれた言葉見てもそうだから、ほんとうに文通得意なのですかと思っているのは秘密。最初はどうでも良い外の単なるファンみたいな認識なのかって思ってこの認識の継続で良いかと思ったけど、申し訳ない。僕の世界では僕が一人称なので、自分を卑下しながら観測するのは衛生上よろしくない。

 

対等で考えると、言葉足らずだよなぁと思いつつ、やはり好感は拭えない。僕が観測できた範疇だけだけど、とても良き人格を構築しているように見える。まぁ僕の好みはおかしいのは自認しているけど。幸せになってほしいとは常々願っている。

 

幸せという概念は無駄なものだと思っているけど、人には投げやすい言葉。

僕は幸せという後ろ盾がなくても十分毎日楽しいし。

 

やっとこさの日記。

 

引き続き窓の外を眺めていたら、やっぱり雪みたいな雨だった。梅雨の雨粒ってこんなに軽そうなものだったっけ。雨粒の大きさというか重さって何で決まるのだろうという生活とは無関係なことがやたらと気になる。

 

そういえば、2年前のこの時期はコンビニの二階のイートインで毎日弁当を食べていて、その前は、同僚と強制的に食べていた。今の昼食時間がとても気楽で良い。職場とか場がたまたま合った人とご飯を食べるのはしんどい。1人が好きというのは否めないけど、この偶然性で連帯感を持つことができないというだけ。意志的な場であれば楽しいけど、意志的な場ってきっと匿名的なところにしかないとも思う。つまり、いつでも退出できるということがセットな場ということ。ちゃんと自由な関係ってなかなかない。

 

これは関係が不自由を含意しているってことなのだけど、省略。

 

 

もう1つそういえば。どうでも良いことだけど、帰ってきたらガスがまた止まっていた。この時期だと水シャワーも大した苦ではないし、すぐ払ってネットで供給再開も申し込んだし、カード決済にしたからもうこんなことはないけど、自分の生活への無頓着はいったい何なのだとは思う。生活力の振れ幅が半端ない。

 

そろそろ最後か。

 

ハチワレ猫さんの小説はなかなか楽しい。昨日ベランダで洗濯機の上に乗って下を眺めたらモフモフそうな猫さんが居たけど、なんで乗ったのかも忘れた。きっと雨具合を観測するためだったはず。

 

ミクジという猫が登場人物にお告げのメッセージを投げて、それぞれ勝手に解釈して幸せになる話。最新のメッセージは「スペース」。確かに余白は大事でひとそれぞれだなと思う。僕は今やすかすかだから、自然とか人とかを無駄に観測できる。でもこれが良いかというと微妙なところ。

 

ここまで。

 

では、今日もありがとうございました。

 

おやすみなさい。