あのさ、
昨日の日記の最後の方は何を書いたか全く覚えていなかったのだけど、また余計なことを書いておる。加害妄想もいい加減にしておけよ、と。観測圏内に置かれている訳ではなく自分が居るだけだし。
ここに関してはいつも理性的ではなくなるのは割と根深い自己ラベリングがあるのだろうな、きっと。いや、きっとではなくおそらくそうに違いない。僕は素朴な自分を決めないことで枷を外したけど関係における自分については経験則が適用されるから、誰かに対して自分は毒なのだというラベルがある。近くなればなるほど。
これを拭うのはなかなか難しいことである。まぁ素朴な繋がりの意味があまり分からないから、この認識はおおむね正しいと思われる。僕が楽しいのは相手が僕の世界に含まれることではなさそうだし。誰かの世界に含まれることは簡単にできるのだけど、それはそれで歪な関係。
そうとう堅固に自分の世界を構築している人ならあるいは。
こんな冒頭にするつもりはなかったのだけど、ままならないのは当たり前。この暗がりはある意味自在の対価だから、しょうがない。波さんにはいつも付き合わせて申し訳ないところ。だから収支が釣り合わないと思っているのか。確かに割に合っていない。
手がとても綺麗です。というとてもどうでも良い感想。手フェチにはごちそうさまですが。
さておき。
小説枠3冊が一気に終わってしまった。新刊枠、読み返し枠、ランダム枠。そういう風に調節したつもりはなかったのだけど、なにかの巡り合わせなのかな。
読み返し枠。植物図鑑は終始甘々だった。ピーマンおじさんはヨモギの時にピーマンくれたと誤記憶していたけど、その後に1人になってからだったのね。記憶の改ざん能力を思う。記憶が正しいって思えることってなかなか平和な人格よね。記憶は都合が良くても悪くても再構築されている。記憶が自分を作っているという説もなかなか危うい。自分が記録から取り出せる記憶なんて一部でしかないでしょうに。
ただ、なぜ膨大な記録の中から記憶として意識的に取り出せるのかということは自己考察の良きネタではある。これは他己考察に及ぼしても良い素材。僕が波さんに対する好意を卒業できないところでもある。何故覚えてくれていたのか。そんなのたまたまですって軽口で言ってくれれば良かったのに。
大人の勉強論。1人だけ賛同してくれたというかそんなの当たり前だと評したから少なくとも僕だけの見解ではない。記憶媒体として脳を使っていると、自分の時系列でどうでも良かったことも含め思い出される。凄く煩わしいのだけど、一般論としてはそうではないみたいというのがどういう脳の使い方をしているのだろうと思う。器用な人格なのだろうな。
ランダム枠は、宗教チックで唐突に終わった。真面目に語りだすけど、宗教って基本的に簡単に連帯感を構築できる装置だと思われる。イエスさんもブッダさんも実在したかは分からないけど、信じる対象として使われたのは確か。日本だって一昔前は王権神授だったし。ただ、個人的には古典宗教には何か人の本質が含まれているような気もしていて。考えるより、もっとおっきな対象に自分を委ねて依存する精神性は分からなくもない。だって、自分は何もしなくても良いし手っ取り早いし。儀式で求められる行為の制限も、まぁまぁどうでも良いだろうし。例えば肉を食べないとか肌をさらさないとか、あくまでどうでも良い領域の可動範囲の制限だと思う。即身仏みたいな仏教観はアウトロー過ぎてやべぇけど。だから原始仏教は好き。
でも、自分以外に信じられる基準があるって体系が確立した宗教じゃなくても、一種の振興ではある。基準が神様であるかルールであるかはあまり関係ない。無神論者だって何かは基準としなきゃいけないし、基準は自分だけのものではありえない。自分だけのものだと思える人が居るなら、それはかなりの世間知らずかただの天才。
新刊枠もある意味宗教チックではあった。神道は体系的な本がないからよく分からない。手塚さんの火の鳥とか古事記くらいの知識くらいならあるけれど。僕は巡り合わせが勝手にやってくるというような神様任せでもないし。
月の描写は好きだった。
満月三日月半月と色々言語化されるけど、月のカタチは1つしかなくて、観測している主観でしかないみたいなやつ。
僕はこの視点で人を見ている。僕が観測できるのは人が僕と関係してくれた一部でしかない。観測した部分で、嬉しいとか愛しいとか思ったとしても、それは一部でしかないけれど、そう思えるのは、不可視な部分も含めてだろうなという見識。
別に僕は僕に呈示されたものだけで人を判断していないので。比較対象にされたら、すぐ撤退できるけど。僕が離れたら良いだけなのだけど。ここができないのが情なのだろうな。
そうそう、判断力批判。
カントさんの言葉はとても分かりにくいけど、言いたいことはなんとなくわかってきた。要するに、美感は素朴な当人の中では起こらなくて、経験則で何が美しいかというのはまぁまぁ決まっているということ。現代人、何が美しいかなんてほとんど見ていないと思うけど。
普遍的な美しさを客観的に読み取れるように人間はできていないのだろうなという暫定的認識。
美しさが誰かと共有できるものだっていうのは、社会美学的には当たり前だとされているみたいだけど、僕は別に誰かと共有するために日々美を収集している訳ではない。
ほんとは、ここから自分がどうなったら世界が楽しくなるのかの話をしたかったのだけど。
すべてのらべるを剥がした後に残る自分ついて。
自分がこうであるっていうラベルは、基本的に自分が貼ったものではない。
では、ここまで。
おやすみなさい。