世界ってなんだろう

 

 

ふざけんなよおじさんにもいい加減飽きてきた。声を荒げるだけで完結するってとてもお手軽な憤りだろうなという意味で。特に物音も聞こえてこないし、フレーズもほぼ同じだし。なんというか、何も現実化してないに違いない。僕もあまり変わらないか。

 

 

さておき。昨日も一昨日もとても滅裂だった。3リットルのビールは日記を書くには許容オーバーか。恥ずかしいので昨日の日記は一文だけ消してしまった。なるべく消さないようにしなければ。自分が他人に毒だというラベルは厳密には他人に貼られたものではなくて、貼られたラベルを前提に自分で貼ったもの。しかももともとのラベルは事実のようなものだからしょうがない。基準がおかしいのである。僕はこのおかしさ在りきだから重ねてしょうがない。

 

 

ともあれ。キノコとバターとゆかりの調和は完璧だ。久々にバターを買った。品薄らしいからお目当てのよつばの無塩バターはなかったけど、雪印の切れているバターはあった。普段ほぼ和食だから使わないけど、休みの日のずぼらパスタには良さげ。バターとケチャップと酸味は覚えておこう。チューブバターは使いこなせる気がしないから買わないけど。

 

お梅雨。

 

今日は早朝6時前に目が覚めて、何か月ぶりか分からないアイスを買って食べた。牛のイラストが描かれているソフトクリームちっくなカップアイス。稀に食べると美味しいな。僕が好きだったアイスは、ソーダソーダでっかいソーダっていうカバのイラストのやつか、下がソーダアイスで上がソフトクリームのやつのだけど、どちらも今は売っていないみたい。

 

ブランチにカレー蕎麦を作って食べて、法律書読みながらFF7のゲーム実況見たり漫画読んだり諸々潜っていた。昼間の飲み物はコーヒーが良い。といっても美味しい豆のものとかではなく、インスタントでも濃ければ良いという味覚。脳にコーヒーは良い飲みものらしいけどそんなことは知らない。飲みたいから飲んでいるだけ。脳に一番良い栄養は純粋に考えることと、その後にぼーっとすること。DHAとか食べようが何しようが使わないとどうしようもない。

 

そうして、小雨の中夕方の買い出しとクリーニングの回収に出かけたら、傘もささず全力疾走のトレーニングをしている人が居た。僕が気になったのはこの人ではなく、この人が走った先にあったびわの木。たくさん実がなっていて、昔を思い出す。びわって匂いは甘ったるいけど、食べるとそんなに糖度はない。果糖が加工されていないからだろうけど、そんなに食べたい果物でもない。でもなんだか美味しかった気がする。最近スーパーでスイカも売られ出したけど、これも特にあえて選ぶほど美味しい訳ではなくて、きっと思い出込みで食べるのだろうな。別に食べてないけど、トマトの味とよく似ていると思っている。

 

食べ物の味すら客観的には認識できないという事実。まぁ五感は経験則が左右しているししょうがない。苦みとか酸味を子供が嫌うのは本能らしいし。

 

本の話。新刊枠は何にしようと思ったら、知っている人が書いている本でタイトルが面白そうだったから「鶏小説集」にした。坂木司さんはだいたいなんだか暗い気がする。1編読んだけど、他人の家庭は良く見えるみたいな話だった。なんで鶏なのかというと、1人は焼き鳥が好きで、もう1人は揚げ鶏が好きということらしい。新刊枠は最近の基準はどうなのだろうという意味で読んでいる節がある。

 

読み返し枠を家で探っていたときに、これも読んだ、あれも読んだって探っていると、この物語達が僕の無意識に収集されているのだって思うと、ちょっとグロテスクな心象風景が浮かぶ。精神のご飯は物理とは違って、栄養分だけ消化吸収して排泄するっていう循環は行われないから、無意識に蓄積されるだけ。上澄みで忘れることができたとしても、収納した事実は変わらない。循環がないことが気持ち悪いなと思う。僕は自分に知識が収納されていくことが是とは思っていないけど、より読めるようになるにはこういう残骸の塔を建てないといけなくて、精神世界の方が現実世界よりシビアだなって。

 

現実世界だとたまたま血縁だったとか、時系列が一致しただけで関係できるし、たやすく相手を殺すこともできないけど、精神世界だとそういう現実的な場所取りは全く意味を持たなくて、容易く殺し殺されることができる。書いていて辿りついたけど、この観念はとても本質的だ。僕は精神世界を現実世界とリンクさせていない節がある。

 

だから波さんが不思議なのか。まぁ、精神生活だけで場所を取っているなら何も問題ないのか。どうなのだろう。

 

読み返し枠は黒猫シリーズの一作目。美学をモチーフにした話なのだけど、なんだか最初に読んだ時より面白い気がする。自分が建ててきた残骸の塔が読み取りを精緻にしているということに気づけるのが読み返し枠の醍醐味。時間の経過だけではこういう風に読めない。

 

ランダム枠は途中で止めていた罪と罰になった。ドストエフスキーさんの文体ってネットライターにはタブーだろうな。時々一文がやたらと長い。でもそれが良き。積読していて良かったけど、たぶん上巻しか買っていないから読み終えたら買い足さないといけない。自分を見つける物語らしいから、時機にも合っている。

 

というところで、僕が自分を決めていないのは、より多くを読めるようになる為と言える。かつてのラベリングでは、ここまで読めるようになれなかった。中学校の先生が同窓会の時に院に行っているって言ったら、○○君ってそんなに頭良かったのかって言っていたけど、この評価もなんだか嫌だった。知らんがなって。

 

でも、この為って、現実世界においてほとんど意味がない。現実世界で何かしたいっていう欲求が全然ない。より面白くというのは、精神世界から零れた余剰みたいな。

 

この余剰で面白さを世界に流通させてみようかという実験的想定はなくもない。

 

もう1つ考えると、僕の日記を万遍なく読んでいる人には僕の中身が無意識に収納されている訳で、なんだかえっちぃ気もする。対同性でもしかり。相互で読むのはある意味まぐわいみたいだ。

 

これも個人的なものさし。

 

判断力批判は面白いけど生々しい気もする。美的判断力はその人がどれだけ美しさを収集してきたのか。快不快を規則にしているとのことだけど、快不快も学習によるような。

 

 

おしまい。

 

今日はまぁまぁ理性的に書けた気がする。

 

では、また明日の日記で。