いちいち

 

 

最近の料理BGMバンプSpica。曲調がとてもかわいらしい。プレゼントとかひとりごとも好きだけど、鼻歌に良き。あとは米津さんのアイネクライネとかMAD HEAD LOVEとか。ふと思ったのが、僕は歌の歌詞を独立した言葉として読めないなということ。歌詞考察とかできない。そういえば昔、某人とカラオケに行ったときにバンプの歩く幽霊を唄ったら、今の私にそれを唄うのかとか言われたけどさっぱり分からなかったな。歌詞は独立したテキストではなく、音楽と声とセットだから、響きを感じるものとしているみたい。ここから言えば、シェイクスピアとかの演劇テキストもうまく読めないような気がする。ひたむきな星屑のテキストも実際観劇したから楽しく読めたわけで。

 

なんの話やということだけど、自分の読み方の1つの解剖。

 

文字があるからと言って同じように文字だけで読むわけではない。日記なら日記として小説とか専門書とかそれが載っている媒体で読み分けているのかもしれないけど、そこまではまだ未解剖。でも、確かに概念を読むのとイメージを読むのでは読み方が違う気がする。小説の場合はある程度固有名詞を知らなくても大事なところはそこではないし。風景描写の固有名詞はイメージの解像度のために調べることもあるが。今日は罪と罰に出てきたマホガニーを調べた。高級木材らしい。全体像はこの木何の木の木みたいだった。ほんと世界は知らんばっかよね。かつてはさっぱり知らなかったアイブローとか。

 

少なくとも言葉の概念をどこまで厳密に読むのか使うのかは場面によって違うか。現実世界で遣われる言葉に必要なのはどれだけ現実と一致しているかだろうし。

 

さておき。

 

本日通勤の道中に元レンゲの絨毯の田んぼを見たら田植えが終わっていた。土日にやってしまったらしい。見たかったな。田植えは何回かしたことがある。足で感じるぬかるみは冷たくてどろどろしていて気持ち良かった。田んぼの土は水分が少なくなってくるともっと楽しくて天然の粘土みたいになる。穴を穿って臼に見立てて泥団子で餅つきをしたら一体化してしまってなんでだって思っていた。当たり前の話。

 

なんだか夢みたいな現実的日々だ。

 

というところで、本当にどうでも良いことしか考えない。今日は、現実世界と精神世界の構成要素について考えてみていた。現実物理世界の構成要素ってどこまでのところまで見て確固としたものだとしているのだろう。例えば、自分の肉体を起点にするといっても、手触りのある物質としての肉体なのか、さらに物質の構成要素としての原子なのか、もっといって量子なのか。電磁波とか音波とか光の波長は、とか。別に厳密性を問うているのではなくて、そもそも現実ってそれほど確固としているのかという疑問符。中学生レベルだけど、教養の化学2周目で原子が変化しないってとても不思議なことだなぁって実感している。

 

まぁ、もちろん僕はある程度の経年劣化があるので、現実という観念の文脈が物理学的な意味ではなくて社会学的なことも知っている。ままならない社会としての確固たる現実。でもこれって、本当に変えようと思えばだいたいは変えられるような気がしなくもない。諸々の事情の優先順位をつけているのは、社会ではなく社会を参考にした当人よねって。どれだけ強固でも原子ほど不変のものではない。

 

そうして、精神世界だけどこれはだいたい現実世界からの流用とかアンチテーゼなのかなって思う。相互の世界は独立して在ることはない。でもこれは物理的かどうかで分けられているような気もする。物理的にはもうないけど精神の中には存在している世界とか。

 

ここで鶏小説集が登場する。

 

世界観っていう視点で見るととても面白い小説。2章の途中までしかまだ読んでいないけど、子供視点が1章で親視点が2章。子供視点では、登場人物2人がそれぞれ自分の家庭が気に食わなくて、見てくれも似ているから交換しようかってことになるのだけど、2章では、父親それぞれが自分の息子のことが好きになれないと愚痴を言い合っている。

 

確かに、子供→親も親→子供も自分で交友を選べるものではないから、素朴な人格として相性が良くないってことは普通にありうる。社会的に親子という枠があるからお互いに変なことはしないとしても、合う合わないはどうしようもない。これって、社会的に子は親を敬うもの、親は子を保護して育てるものっていう道徳観が通じていれば現実世界においては問題なさそうだけど、この道徳感が潰えたらどうなるのかなというのは気になるところ。

 

たぶんこの小説みたいな言説は数十年前だったら書けなかったと思うし。もっと考えると合う合わないは関係なく連帯しろよっていうのが学校教育で教わるものかもしれない。よくできたシステムだ。

 

人は他人と素朴に関係しないと寂しいっていう観念も創作物なのかもしれない。どちらかという社会的な関係なのだろうなと。

 

イタリアンドレッシングはベーコンの味がする。

 

美学の本の話。この本は丸善で本の師匠が買ってくれた話なのだけど、読んでいると卒論書いておきたかったなという衝動に駆られる。学者さんが書く小説は概念がきっちりしていてかっちり読める。主人公は美のメタファーで、黒猫さんが学問のメタファーだっけ。なんだか読んでいると鳥肌が立つ。概念的に読める。

 

ではなくて、卒論の話。

 

僕が行っていた法学部は卒論が必須ではなくて、ゼミも単位の1つでしかないから卒論をスルーした。単位は3年で取り切ったので、就活ではなく院試のためにせこせこ図書館に通って12時間くらい勉強していた。まぁ勉強するだけではなく、ネットで知り合ってお昼と夜にメールだけで1年ほど文通した人とその後恋人になったりするのだけどこれはまた別の物語。

 

卒論書いておきたかったと今更思うのは、まとまった論考を書くという経験を経たかったなというところ。書いてみたかった。ゼミの発表のためにレポートは書いたけど、あんなの裁判の判決文と学説をまとめてちょろっと私見を書くだけだったし。研究とは自分で答えを見つけるものだってこの小説に書いていて、あぁ、こういう裁量ありきで書いてみたかったなって。

 

もちろん今からでも書けるし、今の方が裁量はあるけれど時機は逃しただろうなというだけ。そういう意味で楽しくしんどかったのは劇評だけど、文字制限があったし。

 

まぁこの日記も、日記という枠の制限ありきの論考みたいな節はある。日記の語彙だとそんなに厳密に概念を定義する必要がないし。

 

ちゃんと探求するなら日記では足りない。

 

そろそろ日記を書くのも収めようかなという想定もあって。あともうちょっとで一年分の文章が書き終わるから、ここまでかなというかそんなやつ。

 

日記の枠で書いている限り、日記の概念に囚われてしまう。

 

じゃあどこで書くのかは知らないけど、まぁなんとでもなる。これを言うとき、楽観と不安がセットだ。

 

そうして、最後に波さんの話。個人的にそろそろおしまいかなと思っているので、行けるか分からない次の文学フリマの時に、たぶん今回が最後だと思うのでみたいな最後挨拶を想定している。好きですって発話で言語化することと、最後に握手して下さいって言うことと。

 

色々考えるけれど、日記を観測して僕の日記を観測される関係(実際に観測されているかは知らない)よりも、もっと距離感は外の方が良いんじゃないかなって。なんだっけ、ほうき星か。

 

心地良いけど、具合が悪い。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。