余生

 

 

 

昨日の日記は直すところも補足するところもなかった。誤字もないし、もっと滅裂なイメージだったけどそうでもなさげ。とはいえ、1年分まであと30回くらいはあったような。ここまでの11カ月分を考えるとすぐ終わるだろうな。概算でたったの6万文字。あんまり継起に対して思い入れはないけど、いつか終わると分かっていないと何事も続けられないわな。そもそも終わりの概念がなければ続くの概念もない。永遠があれば別だけど。

 

さておき。

 

もやしとピーマンときのこが続いていたから違う野菜を探していたら、人参と茄子と小松菜が安かった。小松菜は残ったきのこと一緒に胡麻和えにした。味を決めずにオリーブオイルと豚肉と人参をごろごろと炒めていたらこれはカレーっぽいなと思って、カレー粉とウスターソースで味付けした。茄子が入ったカレーは実家では出なかったけど、カレー味の茄子美味しい。家で食べていたカレーはカレールーのザ・カレーだったから、あんまり覚えていない。

 

夢の話。母親と妹とか親戚筋が出てきて、妹には頑張っているように見えないとか諸々言われて夢の中の自分はまくし立てて言い訳をしていた。伝わると思ってない癖に無駄な労力。伝わるの話はまたあとで。

 

時系列を遡ってみて正月とかお盆とかに親戚が母屋に集まっているとき、我が家の母親はあんまりあっちに行くなという空気を出していて、あっちに行きたいなとそわそわしていた。親戚達が楽しんでいる場に行きたかったのかと思っていたけど、今思えば何のことはない。居心地が悪い場からよりましなところに行きたかったからだろうなと。大学で地元以外しか選択肢がなかったのもそう。

 

夢の中では母親は擁護していてくれていて、愛想よく振る舞いなさいよって言っていた。お玉がなかったという言葉の後に目覚ましが鳴ってしまったからここまでで夢は終わり。なんでお玉かは知らない。鶏小説集で親から子供に対する費用対効果論を読むと、確かに僕には一番投資しただろうし、返ってくる見込みもあるのだろうなとなって、ちょっとげんなりする。余裕ができることがあれば一気にフラットにしようと思っているけど。

 

夢から覚めて。

 

仕事していて、人って異性にはちょっと甘いよなっていう想起があった。女性のクライアントの方が若干話しやすいなって。まぁこれは仕事上の経験則だから、一般化するなら、異性に対してはちょっと扱いが違うなってことだろう。このちょっとの違いがあるときには分断になる。

 

一般論として女性の方がグループになりがちで、男性はそこまでべったりしないっていう見識があると思うのだけど、読み手としての僕は素朴な文章で男性の書き手に惹かれることってあんまりなかったりする。異性の方がより異質だからかなとも思ったけど違った。素朴な文章においてより個人であるのが女性で、男性のは社会化というものさしが共通項にあるから。自分が社会的にどうであるかを踏まえて書かれた日記は読んでも面白くない。でも、これが日記というものとも思わなくもない。小説になると文豪とか完全に社会的にアウトローで個人の中身を突き詰めた話だから面白い。ここには性の別はない。

 

そういえば、もう1つ仕事で、先生は部下の個人個人によって対応を変えている。僕に対しては、貴方の知識レベルはここまであるよね、だとしたら僕ならこう応対するよ。いや、まだそんなことないんだけど、こういう特に鼓舞してくれなくても認めてくれる人の観測圏内で過ごすのはとても楽だと思う。自分を決められなくて良いから。自分はここまでで良いんだって思う人にはちゃんとそういう対応をしているという、できる上司だ。

 

仕事の不満で、自分ができないことが理由な人ってどれくらい居るのだろう。誰かよりの相対性ではなく絶対的な意味で。自分が絶対的にできないことって、ちゃんと試行錯誤すればある程度はできるようになる気がする。もちろん職人レベルは無理としても一般レベルにはきっと至れる。

 

あぁ、あんまり書きたいことではなかったのだろうなと自己分析。

 

そうして、伝達とか影響の新説。

 

の前に、波さんとの関係の話。昨日の日記でなんで文学フリマを最後に設定したのだろうと。このまま維持すれば、次回の争いをテーマにした劇評も書くことになるだろうに。もしかしたらその先もあるかもしれない。

 

自己考察だと、だからこそ嫌なのだろうなって。きっかけは能動的だとしても関係はとても受動的だ。面白い経験はできるとしても、もはや自分が選んだことではなくなってくる。もちろん、それほど僕の劇評に価値はないのだろうなと思っている上で。ほんとは、、。

 

そもそも、価値って何かって厳密に考えると難しいところ。分かりやすいところで言えば市場価値だけど、市場価値が個人に何をもたらすのかとなると、それを所有する優越感とか、所有するために支払った所有対効果とかになるのだろうけど、これって対象そのもの価値は測れていないような。

 

自分が時間をかけたものが価値だっていう観念もちょっとバグっているような気がする。これだって価値は対象ではなくて、自分がかけた時間だろうし。結局何が言いたいかというと、価値って客観的なものではなく主観的なものでしかないということ。

 

僕は継起にも対価にも自分の価値を見出していない。自分の価値なんて無いでいい。なまじ価値が有ると思うから変なことになる。

 

こうして、伝達と影響の話。

 

誰かに何かが伝わるのは、その具体的な相手がたまたま同じようなものを持っていたくらいの意味でしかない。自分の言いたいことが伝わっているのではなくて、相手も同じような伝えたいことがあったに過ぎない。ニュアンスが難しいな。直結はしていない。

 

本を読み漁っているとそういう想念に至る。本を読むことは自由になることだってどこかで読んだけど、この自由は、自分が何であるかを分解できること。自分がかつて読めなかった本を読めるようになったとき、自分が拡がったではなく、自分にもこれを読める要素があったのだとなという感覚になること。

 

もともとなかったら、どれだけ読んでも知識にしかならない。知識として本を読むのってかなり苦行だと思われる。

 

影響になるともっと分かりやすくて、誰かの影響を受けて何かをするようになったって良く言うけど、もともとそれを現実化できるような器がなければできないこと。確かに開眼するためには外的要因は必要だけど、変な話、外的要因は誰でも何でもいい。

 

波さんの日記の節々に勝手に僕の日記の影響を感じなくもないけど、これは別に僕が居なくても波さんの中にもともとあったものだろうなというだけ。

 

僕が毎日弁当作っていると誰かに言ったとして、その誰かが毎日作れるようになるかはその人のもともと持っているものによると同じ意味。拳銃突き付けられて、毎日やれって言われたら作るだろうけど、幸せなことに現代日本はそんなことは起こらない。

 

でも、自由になる為には不自由を解消しないといけないから、ほどほどにしておいたほうが良い。

 

 

おやすみなさい。