カウントダウン

 

 

ポン酢とケチャップってかけるものとしては混ぜ合わせる気がしないけど、炒め物の調味料にしたら酢豚ぽくなるかと思い付き鶏むね肉と茄子でやってみた。皮の部分を弱火で炒めて出てくる油を炒め油にして肉を加えて、茄子を足したときにごま油も加えてなんやかんや。思ったより酸味はないけど美味しい。

 

 

本日は梅雨らしく重たそうな雨。弁当も外で食べられないし、帰りも濡れて不便だった。昼なのに誰も居ない公園って、記号として矛盾していて綺麗だ。憩いの場としての目的から乖離している。単に喧噪に美を感じないというだけかもしれないけど、一致していない不具合ってとても惹かれる。あと、植物が文字通り瑞々しい。ガクアジサイもセイヨウアジサイも捨てがたいけど、帰り路の最短ルートを外さざるをえなかった花。ちらっと見えて、お、と思ってみたらたぶん、蛍が中に入る白い花だった。名前忘れたけど、こんな路地に咲く花だったのだって。雨は視界を滲ませるからほんとのところは分からない。時期としては合っているような。

 

 

さておき。

 

もう木曜日が終わる。一日一日がつるつると終わっていってしまう。この感覚なら残り時間があと何十年あろうと一瞬で終わってしまうだろうなという危惧を抱く。無為には過ごしていているけど、ただ過ごしている訳でもないのに。これってたぶん、日常において来てほしくない時間帯がないからなのだろうな。朝は若干鈍いし昼休憩後は眠いし呼吸がちょっとしづらくはなるけれど、嫌だなぁとまでは思わない。

 

他の人の時間感覚なんて知らないから自分の感覚だけど、時間が区切られるのってそれが来てほしくないことが支点になっていたような気がする。嫌なことがどんどん迫っている時に時間をありありと感じるし、楽しみなことも然り。待ち遠しさに時間を感じる。

 

そうして、年を経た方が時間の流れが速くなるというも、前は区切りがないからって言っていたような気がするけど本質はそこではなくて、単に今までの長さと比べているだけと思った。距離で測るようなものではないはずだけど。

 

日記が更新されないから空腹だ。

 

ところで、先生が、自分の脳のピークは25歳だったって言っていて、僕がそういう風に思うことってないだろうなって思う。確かに先生はごりごり大学院で研究していた時期で当人的には本当にそうだったのだろう。でも、何をもってそうしているのかは分からない。外界に対する吸収力なのかもしれないし、単純なワーキングメモリかもれない。たぶん集中力なのだろうなって当たりを付けているけど、集中力なんて研究者以外には要らないものだと思われる。いや、もと研究者の人が集中力なんて要らないというエッセー書いていたけど。

 

集中力信仰はなかなか根付いているよな。集中って環境の話でしかなくて、集中しようとしてするものではない。環境を整えるっていう文脈で言えば、先生の脳環境は25歳の時が一番良かったのかもしれない。集中しなければって思うこと自体が集中にとっては雑念。

 

環境としての雑念は必ずしも悪いことではないけど。自分以外の存在を自分と同位もしくは自分以上にみなせることだから。

 

さて、やっと本題。

 

共同幻想論は今読む本だったのだろうなと思った。まだ最初の方だから中身についてはあまり分からないのだけど、共同幻想とは、自分に基づいた観念以外の観念全般だったかな。俯瞰的な価値観。国とはとか倫理とはとかそういうやつ。幻想だから物理的ではないってこともなくて、この本は国家を語るものだから国家の構成員であることはとても物理的だろう。物理的無意識。

 

どうやらこの人は、もともと文学ないし言語学の研究者らしく、前著で言語としての美という本があるらしい。こっちの方が気になる。で、言語学の界隈の研究者の批判は全然検討違いだったとか。

 

曰く、言語学的な言語観はもともと言語が存在しているという前提があるけれど、自分は表現としての言語を対象としていたとか。表現されなければ言語はない。

 

なんだかとても僕の素朴な感覚と親和性がある。表現されなければ言語がないとすれば、その前には言葉は何もないはず。表現を例えば、精神世界に及ぼしたとして、誰かに表現できなかった言葉あったとしても言語の範疇ではないけど、当人の中では言語にはなっている。

 

これを言葉とみなすかどうかは人それぞれだろうけど、もっと考えると、言語が言語になる前には何があったのかって、何もなくないか。人は何も持っていないというところはここに繋がってきて、発信側の視点で見ると、言語は発信者の中で発見されたものになる。

 

これを前提として見ると、日記は日々の記録ではない。記録だったら自分の目線にカメラでもつけた方が鮮明だし。要は、自分が世界をどういう風に見ているのかを発見するための所作。だから、あくまで内側の表現でしかない。

 

僕はこういう意味で自分は分解できたから別の媒体に移行しようかなというだけ。日記を書かなくても世界は美しいし、それくらい細分化して世界を見ていることは分かった。

 

最後に縁の話。

 

僕がやたらと縁を気にするのは、対象に対する観念がずれているからだと思う。僕の中では人ってものすごい速度で移動していて、惑星の公転周期に近い。たまたま繋がったとしても軌道が平行なだけで、いずれ周期は離れる。まぁ人の精神世界は重力には囚われていないなから、意志である程度はずらせるけれど。

 

だから、縁があるうちに物理的世界でも邂逅してみたいってことになる。でもこれは僕の感覚の話であって、当人が天動説だとしたらそもそもそういうことはないか。

 

だとしたら、通り過ぎられたと思っていた人は僕が通り過ぎただけかもしれない。僕がここに居るうちになんて相手に関係ないし、相手としては僕の変化を望んでいなかっただろうし。

 

365回分の日記を書き終えた後に、全部供養して燃やすことを目論んでいる。

 

ではおやすみなさい。