関係を決めて
仕事が終わってスーパーに寄った帰り、前を歩いている人が転んだ。足が不自由そうに見えるけど、不自由さに馴れていないようだったから事故なのかもしれない。速足で近づいて「大丈夫ですか」とは聞いたけど、無言だったから何もしなかった。別に不自由そうだったことが根拠ではなく、目の前で転んだからだったのだけど、もしかしたら見下しとして捉われたのかもしれない。
別にここに後悔はない。他人が何も求めてないのに何かを一方的にするのはとても失礼なこと。これも最近塗り替えた認識だけど。僕はそこまでしない人だ。善行っぽいことを積むことに意味を感じないし、僕が見えたところで掬えても何にも変わらない。
落ちた財布とかなら、当人が見てないからしれっと拾って届けられるのだけど。
しんどいこととか伝えたいこととか求めることはちゃんと表現しないといけない。勝手に施しがあることなんて稀有なこと。
表現としての言葉で言えば、僕の言葉はそれほど求めていない。求める言葉って、暗喩みたいに使われることが多いのかな、相手がこうしてくれるに違いないという意味でぼやかす。
語用の呪縛というか日本人の慎ましさというか、非言語の雰囲気で世界をコントロールできるという風潮がありそう。自己主張的表現はすれば良いと思うけど、それって本当に自分という個人が求めているものなのかと考えると、なかなか疑問ではある。
僕はそもそも自分が求めるように世界は動かないで良いっていう前提がある変態だから、個人に対する表現は、欲求ではなくて提案でしかない。まぐわってみませんかってまぁまぁやべぇ表現だ。今のところこういう表現は一人だけにしか言っていない。はず。恥ずかしいので封印しようとも思う。
変な話だけど、僕は別に、自分の欲求が全部叶うことが自由とはしていないし、他人に期待はしてないから、物足りると思っていた人が物足りなかったみたいな感想は抱かない。
ちょっと脇道にそれて。
新刊枠はもう次のものがやってきたから、鶏小説集はもう良いかなっていう気分になっている。僕は小説において結末のカタルシスなんてなんて求めてないし、結末のその先を想像する為に読んでいる訳でもない。どれだけその物語に没入できるかという過程しか大事にしていない。
それにしても、罪と罰は登場人物の自分語りが長すぎる。モブがこれだけ語るってなんぞ。でも、この小説がこの時代まで生き残っているのは、なにがしか普遍的なところがあるのだろうなと思うけど、僕は別に普遍的な価値があるからという理由でこの本を読んでいる訳ではない。
匿名的ちょっと近い誰かさんが前しか見ていないと言っていた。文脈で、今以降の時系列だとは読んでいるのだけど、なぜ物理的な位置の言葉が出てきたのだろうって読もうとすると、不思議になる。位置観念だったら上でもポジティブな要素にはなりうるけど、なんであえて前という言葉を選んだのか。
「前」ではなく「今」の方が適切ではなかろうか。とか。
波さんが言っていた、誰でも嬉しいっていう言葉もやたらと印象に残っていてやたらと気になる。本当に誰でも良いのかなって。
いや、たぶん本当にそうだとは思うけど、その基準からしておかしいことを僕に対してしてなかろうか。ということはなんでですかって機会があれば聞いてみたい。これも全然願望ではないのだけど。
まず、ファンの匿名的なところを現実的に開示してくれっていうのが波さんの観念にはないはずなのに、というのが1つ。誰でも良いから認められたいのであれば、具体的な個人なんて必要ないはず。
あと、この前の劇評について誘引してくれたこともおかしい。評論が誰からでも嬉しいとすればだけど。僕の表現が良いって言われたことはないから、当人の本当なんて何も知らないけど。
単なる営業だという説も否めないからなんとも言えない。
存在を受け入れるって言った責任はいつ取ってくれるのだろう。
てな感じで観測している。
なんも知らない。
365回までにはあと30回以上はあったから、当面僕は居なくならないです。
ではおやすみなさい。