選択肢

 

 

 

「幽霊を創出したのは誰か」だった。順番は大事。文章では少しは直った気もするけど、倒置法のように話す癖がある。思い付いた単語で話すから、全然通じない。順を追って組み立ているとか主語と述語をちゃんとするというのがとても苦手。発話でも矯正中。

 

思考の順序は変えられないけど、表現にはラグがあるから。

 

 

さておき。

 

今日は涼しい一日だった。昨日の日記ですっきりしたからかなかなか気分が良かった。出勤ルートで見かける手のひらに乗るくらいの大きさで一輪しか咲いていないピンク色のセイヨウアジサイかわえぇなと思っていたら、道中のごみ捨て場で同じくらいの大きさのネズミを見かけた。ネズミは朝方なのかな、ずっと前に新大阪の地下でも見かけた。視界にちょろちょろしたものが目に入るとどうしようもなく焦点が絞られる。

 

帰り路。最も早番だから空は明るい。スーパーの店員さんにも良しあしがある。僕はだいぶ若いだろう女の子の店員さんが良い。かわいらしいからというよりも、とにかく早い。気を抜くとタイミングが合わなくなるほどきびきびしているし、クレジットカードの読み込み時間の15秒くらいの間に清算用のかごを移動するとか、他のこともやっている。ちなみに愛想はそんなに良くない。けど、それも良い。若さとか顔とかでハードルを下げることはなくて、最低限のことをしてくれて手際が良いのが一番良き。社会美があるとすればこういうところだろう。必要な動き。

 

しかし、野菜は微妙に高い。めぼしい野菜がなかったから追加はせずに、メインは鶏肩肉ともやしと人参のウスター炒め。副菜は残っていた茄子1本の皮部分に格子状の切れ目入れて一口サイズに切り、ごま油、醤油、ほんだし、しょうが、お酢を加えて混ぜながらレンチンして最後に胡麻を加えたもの。煮物なのか酢の物か分からないけど、とろとろして美味しかった。

 

行動日誌は終わり。いや行動日誌だと、民法では公序良俗違反とは何ぞやとか、民事訴訟法では弁論主義とか、刑法では因果関係としての危険の現実化とか、諸々も入ってくるけど省略。それぞれ面白いのだけど、この場にはそぐわない。

 

ともあれ。精神世界的日記。

 

最強の休息法という本をちらっと立ち読みしたときに、気付けば考え事をしている状態は脳に疲労がかかっているということだった。あんまり精読していないからなんとも言えないけど、ここでいう考え事っておそらく、自分に関係がある、考えてもどうしようもないことであって、全く無関係のどうでも良いことではない気がした。

 

というところで、思索の始まりは、「一週間は何曜日から始まるのか」というしょうもないこと。カレンダーとかシステム関連はだいたい日曜日が始まり。今週のアクセス数は日曜日からだし。そうして、学校とか暦通りに働いている僕みたいな人は、始まりは月曜日だとしている人が多いはず。で、暦通りに働いていない人にとって始まりはどこなのかみたいな。

 

もちろん、一日も一週間も一年も円環構造だからどこにも始まりはない。辿れば生まれたときだけが始まりかも。僕は何曜日に生まれたのだっけ。でも、どこかに暫定的な期間としての区切りがあった方が分かりやすくはある。

 

もうこの時点で時間の観念が個人レベルでずれていることは分かるのだけど、もっと言えば、一ヵ月に一回しか接しない人との時間はどうなか、何年越しかに会った人ならと考えていくと、結局客観的な時間ってそうとう恣意的、というか、今から逆算、順算できるものでしかないのだろうなって。自分が何年生きているかも今からしか測れないし。

 

この感覚も僕が都合良く生きられるための道具なので悪しからず。

 

 

そうして、規範と規則(ルール)の違い。この時間感覚が規範ぽいなっていうところから。

 

規範っていう単語は法学やってなかったら知らなかっただろうな。哲学用語のような気もするけど、哲学だと当為とか図式とかもっと分かりにくいものがある。規範とはの定義もよく分からないところだけど、これこれはこういうものであるという一種の命題で、義務としての行動にかかるものという手触り。

 

規則はふつうに分かりやすくて、確かに義務なのだけど、ルール違反に対して制裁というかペナルティがあるもの。就業規則しかり、その場にいる限りルールには問答無用で従わなければいけない。

 

 

規範は規則よりちょっと緩くて、従うか従わないかは個人が選べる。道徳規範もそういう風にすべきという観念はあっても従わなくても何のペナルティない。現実的にはともかく。

 

法律が規範を問題にするのは、国家という枠内でのマイナールールだから、それが嫌なら離脱する自由もあるということとセットなのか、うーん、ここまではまだ良く分かっていない。

 

選べる行動準則という意味で言えば、時間をどの単位で捉えるかも同じようなものだなと思っただけ。

 

 

ところで、「幽霊を創出したのは誰か」はなんだか読んでいてどきどきする。発想が刺激される感じ。この感じは誰かさんのボーダー論を読んだときと同じ。需要はほとんどなさそうだけど、この筋の文章が旨い。

 

近未来SFで人は人工細胞を取り入れて寿命問題は克服された世界観での幽霊観。幽霊という観念を発想しようとした需要はどこにあるでしょう。

 

幽霊を幻想としたら共同幻想の話にもなってきそう。共同幻想が発明される条件は、覚醒していなくて、うんたらかんたらみたいなことがあった。覚醒という単語は、カントさんもヘーゲルさんも使っていたような。何に気づけば良いのか。

 

幽霊の需要。たぶん、現世とは違う世界があるという願望なのだろうな。地獄は現世よりひどい世界があるということだろうし、天国は死んだあとにはもっと良くなるみたいなことだろうし。

 

僕は幽霊を信じていない訳ではないのだけど、一向にそういう体験がない。金縛り的なものはあるし、そこで良く分からない存在が知覚されるということもあるけど、夢と変わらんなという感じ。

 

この先だけど、熱力学第一法則だっけ。エネルギーは循環するというのを見たときに、いや、ほんとかって思う。人のエネルギー源ってカロリーではない。確かに物理的な肉体のエネルギー源はそうだろうけど、だからとて、お腹いっぱいに食べたら自分が想い通りに行動できるかというのも違う。

 

人の体をほんとに動かすのは、意志だろうと。匂いすら物質として可視化されているけど、意識はまだ捉えられてない。これって、まだ人間に物質として認識できていないものがあるのではないかって思う。スピリチュアルな意味合いではなく、歴史の話。電磁力は原始人にはコントロールできない不可視化なものだったのに、今認識できるものが世界のすべてだと思えるのはまぁまぁおこがましい話。

 

意識がどうあるかは解明できても、なぜあるかは今のところ分からない。結局不可視な部分はどうしてもあるということで僕としては問題ない。

 

あと思ったのが、僕は規範的生きている人に対して不自由に生きているように見えるのだろうなというところ。ある空間で生きるためには規範に準則するのは正しいとしても、自己空間の中で規範的に生きてどうするんだって。ここにおいては自分がどうあるべきじゃなくて、自分がどうしたいかという話だと思う。

 

とりあえず、最終日までひたすら分解しよう。

 

では、おやすみなさい。