感性
なかなか壮大な夢を見た。あまりにあんまりだから全然言語化はできないのだけど、行ったことがないところや見たことがないものや感じたことがないものをたくさん体感した。夢も1つの体感。過去も体感。未来だったって体感として想像することはできる。物語だって体感として良い。では、どの体感が最も価値があるのか。個人的には任意だと思うけどどうだろう。
そういえば、過去観の話。起き抜けに思い付いたのは「いま」の特権について。過去のそのときの自分より当時の接した人のことが認識できる。僕が家族以外で一番長く過ごした人にどうして惹かれていたのか。とても意志的に世界を認識していたから。特に本とかも読んだことはなく、先天的に。とても夜型というか、不眠症で、一日がいつ始まるかが決められないから便宜的に日が昇った時を一日の始まりにしていると言っていた。
ただ、その意志的世界認識が強すぎて、学校生活とかの社会生活ができなかった模様。過去はあんまり知らないのだけど、バランスが不安定だった。当時の僕は一般論で曇っていたからうまくはいかなかったのだけど、発話の言い回しの良さが今となってよく分かる。二回目に逢ったときは随分違う人になっていたけど、そうではないのかもしれない。この経過を通さないと今の自分はないということ考えても、悪いことしたなって感想。
ともあれ、こういう全く何のためにならないことを考えるとき、今の特権だなと思う。別にこれは過去を美化しているとも違うから、美化された過去として自分が誰かに残りたい人にとってはちょっと違うのかもしれない。ちゃんと関わった人に対して、あの人良い人だったみたいなラベルは貼れないし。
僕にとって過去は無為に過ぎ去ったものではないから、そもそも褪せるとかモノクロになるようなものではない。だから同じ時と過ごした人と過去を語り合うことが馴染まなかったのか。踏まえて今どうなんだということでは。
ただ体感を共有するだけの関係の価値があまり分からなくなってきている。影響を受けてなんぼじゃないかって。自身に気に食わないところあるなら余計に。
過去を美化するという観念も一種の幻想ちっくではある。共同幻想論が言う幻想論はよく分からないけど、おそらく、自分と世界の乖離が要素にある。子供は世界に対する認識が薄いから、イマジナリーフレンドを創出するとか。共同幻想論は予兆の話になっていて、なかなかおどろおどしい。今のところ柳田邦男さんの思想の解説文なのだけど、もっと面白くなるはず。
で、過去の美化を考えると、これも自分を時系列で乖離させるという意味では幻想だろうなぁて。なんで美化するのかって、言うまでもなく、今の自分より良い時系列があったという観念。どの時系列の自分にも「いま」しかないから、今をどうにかすることにエネルギーを使った方が良い。他人事論。
この美化って、美学的にどうなのだろう。どうやら美学の起原はカントさんではなく、アリストテレスさんらしい。感性的に捉えた世界を省察することとか。原文あるのかな。ぜひ読みたい。
そうして、社会美学の本も読み終えた。たぶん読み返さないけど、好きなフレーズもある。観念的に捉える世界と感性的に捉える世界では、後者の方が狭い。確かにそう。ただ、この本に書かれている社会美は、どうも観念で捉えた快を感性的に後付けで捉えるって感じだからしっくりこない。
ここでいう快って、生活を積み重ねたものに感じる快って感じ。確かに良いなって思う。人の営みの息遣いとか、ちょっとした善意とか。ただ、これってほんとうに感性で味わっているものなのかという疑問。カントさんは美的判断を自分が美だと感じたことは全人類に要求することができる主観的妥当性があることだと言っているけど、これだと逆になる。善いとされていることに感性が気付けるようにするだけでは。
そういう試みっていう学問なら分からんでもない。
快がなんであるかの追及だけなら、昨日のスーパーの店員の女の子に接した自分と変わらない。そういうえば、今日の女の子は同じく早かったしかわいらしそうだったけど、どうも合わなかった。昨日の女の子なら急いでいても手が触れるようなヘマはしないだろうとか。
幽霊の話はどんどん面白くなっていて、実際に接したとしてもその人が幽霊かどうかなんて分からないよねっていう哲学の話になっている。人間は何をもって人間と定義しているのかという命題については、ずっと考えているのだけどよく分からない。
物理的生物学的な人間を人間とするのが一番わかりやすいけど、これでも、では、胎児は、受精卵は、精子卵子ではとななってくると、どこかで選択しないといけない。
そうして、自分が直に触れる人としか人としないという定義も強固で確固としているけど、それでは世界を生きられない。
じゃあなんだって言ったら、影響値と観測圏内で選んでいくしかない。ニュースでいくら人が死んだって、自分の観測圏内の人が死ぬことと比べたらたいしたことはない。大したことがある人は毎日ふさぎ込んでないといけなくなりそうだし。
あぁ、これが観念の世界観なのか。とても不透明な世界だ。
要は、相手が幽霊かどうかなんてあんまり問題ではないということ。
いや、僕がか。
波さんの語彙が好きだから、きっとてきとーなことは言わないと捉えている観念と、日記の文脈でどうでも良い人にはてきとーにはぐらかすという観念のどちらなのだろうなとは思う。存在としてはどちらも幽霊みたいなものだから、どっちでもええかなという感じ。
幽霊って、意志が肉体から乖離したものらしいし。
はい、おしまい。
おやすみなさい。