原動力

 

 

 

昼休みに社会美学の代わりを探しにリブロに寄ったけど(というか毎日寄っている)、新刊ではないらしい。しばらくよく分からない枠は1冊抜けた状態か。と思っていたら、そんなことはなく。帰宅ルートがちょっとしたことで変わって、あぁそういえばこの道だったら古書店に寄って帰ることができるなと気付いた。軒先にある50円棚にデカルトさんの方法序説とルソーさんのエミールあってすごく惹かれたけど、いかんせん今文庫本枠は満杯なのでやむなく断念した。

 

認識に依って世界が拡がるという観念を素朴に感じるのは、本屋に行ったとき。膨大なタイトルが並んでいるけど、読める本か読みたい本しか目に入らない。他の圧倒的な数の本達は開拓していないか、一生出逢うことがことないもの。この死角って人生とも並行的なのでは。

 

そうして、見つかった本は、「エレガントな宇宙」 社会美学が感性でしか捉えられないものだとしたら、宇宙論は概念でしか捉えられないものだから、なかなかバランスが良い。人は宇宙が在ることは知識として知っているけど、体感したことがある人はほとんど居ない。にもかかわらず存在が当たり前になっているのは何故かというと、たぶん、在ってもなくても実生活に特に影響がないからだと思う。天動説から地動説に変わったことで影響を受けたのが宗教関係者だけ、とは言わないけど少なかったことと同じ。宇宙が在るかないかより、今日の晩御飯の方がきっと価値がある。

 

相対性理論がとても大きなもの、光とか宇宙を対象としていて、量子力学がとても小さな物質を対象としているから、統合的に把握できなかったらしい。それを説明できるようにした超ひも理論のことが語られるという前書きを読んで、まだ少し早かったかなと身構えたけど、続けて読んでいると物理とか化学の素養がない人向けに書いたって言っていてひと安心。

 

なかなか面白く読めそう。

 

実生活の話。

 

今日仕事し始めときに、あんまり声が聞こえないんですけどって言われて、調子悪いんだなって自覚して、昼休憩のときに考えたのだけど、自信がないことって体調と同じくらい自分の肉体を左右する現象なのだなと。僕は基本的に対人での自分の表現に不信感があって、声が通らないことも自覚があるから、そう言われたらやっぱりそうかという悪循環になる。声に感情を載せるとか付け焼刃だし、聞こえないって言われたらごめんなさいってなってしまい、余計もごもごする。

 

ただ、ここの調整も分かってきたから、昼前には挽回できたはず。

 

言語も発話も行動も、具体的な対人関係だと、自己表現には違いないけどもっと適切な意味当ては、相手に自分の存在を示すということだと思う。僕はここが欠けていたなと自覚している次第。なるべく存在していないような存在で居たかったし、自分が観測する自分の存在観もやたらと薄い。

 

僕にとって大人になるというのは、ここかもしれない。存在しているのはしょうがないから、中身はともあれ存在観は示すということ。言語も発話も体の動きも、存在の前に居る自分を世界に自在に出すための道具ぐらいなものでしかない。波さんを都合よくリハビリ的に使っているのかもとか。存在の概念についてちゃんと考えたのはこの人の言葉のおかげ。存在の定義を一向に教えてくれないのが何故かは好意を抜きにしても気になっている。観測値の話かいな。

 

忙しそうだから仕方がないけど空腹です。

 

言語。よくもまぁここまで綴れるようになったものだ。それほど語彙が増えている訳ではないけど、これは訓練と、存在を示しても観測してくれる人が居るという学習が強い。ウェブライターの文章がうまくいかなかったのは、そういう風には窮屈だから書けないというだけ。いや、基本的な文章作法が分かっていないという説もあるけど、仕事でも楽しく書けたこともあったから一概には言えない。

 

発話。本当は特に苦ではないような気がする。でも、発話での言葉って、存在としてはとても曖昧。いや、だからこそ、誰が発するかが大事であって存在としては一番重い? 分からない。仕事で話すということにおいてはまぁまぁ自在になりつつある。

 

行動。漫画アプリで読んでいるサッカー漫画が科学的、いや力学的になるのか、人の動きを解説してくれて面白い。歩き方とか、体を壊しやすい走り方とか。別にスポーツなんてもうしないけど、こういう物理的なメカニズムさえ把握できていないという拙さ。

 

であるならば、意志を行動に過不足なく載せることってめちゃくちゃ高度なものではなかろうかという応用。思った通りに体が動かせないことを実生活にすることも良いけど、だったら調整が必要。これは自戒でしかない。もっと自在に動かせるのではと。

 

もう少し時間があるから、何にしようかな。

 

実生活という概念って拘束ありきなのかとか、幻想とは世界への同化だったとか、なんで他人と直に接しないと他人を感得できないのかとか。

 

実生活で良いか。いや、もうだいたい書いている気がする。

 

僕は実生活=現実みたいなことに価値を置いていない。置いてなくてもルーティンに齟齬がないのだから、なかなか良い肉体をあてがわれていると思う。欲求も切なさもだいたい自己処理で良いし。

 

人にとって、どうしても外せないポイントがどこにあるのかが気になるところ。

 

そういえば、昼休憩の時に、自分の手についていたバッグの紐跡を見たときに、自分のフェチってそうとう質悪そうだと思った。

 

まぁ、こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。