はざま

 

 

今日の夢は、船に乗っているシーンと夏祭りのシーンが印象的だった。どちらもここ何年も体感がない。あと、もっと自分を出せと言われていた。僕の時系列別々の人からこういうことばかり言われてきたけど、とうとう居なくなった。この文脈でいう自分を出すというのは、自分の感情とか衝動を相手に要求することとか、自分を統合的に把握した上でその基準に従うとかそういうことだろうけど、僕には全然馴染まなかった。

 

そういう現実化に全然価値を感じない。自分が嬉しいように人が動くことを意図して稼働することを自在の範疇に含めるのは違うよなって。やろうとすればある程度はできそうなところもなかなか嫌だ。この価値の置き方でなかなか時間を消費することもあったけど、おおむね自分が遣いたいように制限時間を遣えるようにはなっている。

 

頭でっかちという評価もいっぱい受けてきたけど、思考が行動を阻害しているように見えていただけかも。今だと考えることと行動することは全然繋がっていないし、思考が行動を決めることはない。正確には、行動の後に行動の意味を考えるくらいしかしてないから、過去の自分を思考することで次に同じヘマをしないように思考錯誤するという意味合い。

 

頭でっかちに見えたのは、行動しなかったことに対しての思考を言語化したら、行動しなかった理由を語るだけだから、外から見れば、考え込むから行動できないのだということになる。ほんとは素朴にそんなことしたくなかっただけだろうというのが今の観測。

 

 

空腹だから、「おやすみなさい」を読み返している。美味しさ比率高い。規範的真面目論とか、目的論とか、クオリティオブライフ論とか、日記を被った論文ちっくな記事が多い。僕はより真面目になることで自由を感じているから微妙に違うのだけど。考えるから何かができないのではなくて、過去の思考が今の自分を阻害するという意味なら分かる。

 

そういえば、判断力批判に、合目的性という概念が出てきたのだけど、さっぱり分からなかった。今本を開いてそのフレーズを引用することだけはできるけど、咀嚼中の消化していない情報なんてここに書く意味はない。とりあえず、美的判断が本当にアプリオリなのかは、純粋理性と同じくらいに疑っている。なんの経験も踏まえない圧倒的感動みたいなことなのかな、まだ分からない。

 

ところで、「エレガントな宇宙」で宇宙は三次元と認識されているけど、ひも理論では空間が折り重なっていてもっと高次元だっていう話があった。まだその中身まで進んでいないからなんとも言えないけど、そもそも次元ってなんだろうって。僕の拙い知識だと、次元の定義は変数だったという理解がある。点が一次元で、直線は点が二つで二次元。そこに高さがついて三次元。だとしたら、現実世界って変数が3個しかないのかという疑問。たしかに空間認識で言えば平面と奥行きでいいのかもしれないけど、現実の認識がそこにおさまっているようには感じられない。そんなかくかくしたものではないし、時間によって空間がかわるとか、光とか電磁波とか、変な話、精神状態とか。現実にある変数は3どころではないような。

 

別に三次元世界観を持っていること自体に文句はない。僕自体が統合的ではないから、他人がどういう風に世界を捉えているかにどうこう言う資格はないし。ただ、その絶対的っぽいものは、最新科学では定説ではなくて、現代に浸透している一般論でしかないのは確か。世界の認識は常に過渡期だし。宇宙が高次元だとしたら、なんで地球だけ三次元なのかという疑問は当然起こる。

 

昨日の、素朴な自分の自在化のところから考えたこと。人って、思い通りに自分を現実化できない。だとすれば、こちら側から観測できる他人の現実って、仮初でしかないのだろうと。言葉でも発話でも行動でもその人の本質からはかなり乖離しているという仮説。ただ生きているだけではどれも満足いくようにはならない。のは僕が不器用なだけか。腰痛にならない呼吸法とか練習している。

 

結局は仮初だろうがなんだろうが自分にとって快であれば良いのだろうから特に気にならないことだとは思う。自分がどうであるかより、相手が自分にとってどうであるかの方に遥かに価値があるはず。この視点だと、自分を変化させることで世界が変わるという観念は起こらない。だって、絶対的な一次元だし。変数がない。

 

この流れで書くと否定的になりそうだけど、生きてきて一番嬉しかった言葉であるのは確か。

 

という前置きで、波さんの言う存在を受け入れる、の「存在」の中身について、今日起きたときに腑に落ちた解釈。①自分を肯定的に評価してくれることと、②自分の生活・現実に影響がないこと。この二つの条件を満たす存在で在る限り、肯定しますという意味なのだろうなと。これでだいたい整合的に今までの現象が説明できる。もちろん、僕が自分の中で筋が通るというだけだから、本当に波さんがどう評価しているかとは無関係の話。いつか飲むという自分の時間を使うという言はここから外れているし。

 

これが起き抜けの発想で、今となってはちょっと更新されている。経済学繋がりなのだけど、供給しないと需要されないという観念みたいな対価関係なく肯定してくれる存在ということなのかなとか。この観念は結構強そう。何も返ってこないのに、自分を存在として観測する人はきっとイレギュラー。

 

本当は違いますって言語で言われても、あんまり信じない気がする。これは現実化の自在の話。自分のこと書かれるのは不快ですって言われたらすみやかにやめるけど。どちらにせよあと少しなので。

 

なんで、直に接する人の方が本質で接していると思うのかって、きっと自己保存の生物学的な話で、生物学的な範疇だと人は本音で本質で生きていると認識される。確かに、社会的な縛りがあるところでは犯罪ちっくなことは起こらないし、安全圏ではある。善い。

 

存在の話に戻るけど、僕が波さんの全存在を肯定しているのかというと微妙なところで。例えば、仮定的に恋人になったとして、自分の為に僕の本を読む時間を減らせって言われたら、きっと何か違うと思ってしまうことからすると、同じくらいの意味でしか存在を肯定していないと言える。

 

となると、物理的な造形に対する好意はまた別なのかとややこしや。おやすみなさいのワンポイントの白Tシャツを着ている写メの鎖骨がとても美だった。

 

人が人を大事に想う概念の現実化って、現実的に費やせることなのか、頭の中の占有率なのか、どっちだろう。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。