生身

 

 

週末こんばんは。なんだかふわふわしている。特に何も起こっていないけど変な充足感。

 

 

さて。夢は諸々あって、最終的に靴汚ねぇなぁって言われた。確かに汚れているので洗わないとな。あと新規で追加もしたい。夏っぽいもので。服も涼しくてゆったりしたのが欲しい。

 

最近の夢を見て思うこと。夢は記憶を整理している過程での澱みたいなことを聞いたことがあるけど、ソートしているようには見えないなぁって。むしろすべての感覚で収集された情景が等価な気がする。直に体感してきたことも、テレビの映像も、小説を読みながら創った風景も。夢に色があるかというのも現実の色感によるらしいと聞いたことがある。最近どこか高いところから落ちる夢はご無沙汰。この落下感は、USJの大阪ラバーとともにある。ジュラシックパークでも良いけど、僕は絶叫系とか、落ちる系はどうも苦手だった。今は、もっと試してみたらたのしそうとは思うけど、落下感がしばらく刻みつけられそうだ。どうせならヘリコプターから落下するのが良い。

 

走馬灯は自分の生命の危機に直面した時に、自分の時系列から死を回避する方策を脳が探しているという一説があるらしいけど、ちょっと夢も似ているような。本当に充足している時には夢を見ないってどこかで読んだ。だとすれば、僕はもっと夢は見ておきたい。

 

 

さておき。

 

読み返し枠は、書庫ガチャを回して1発目は色彩をもたない多崎君で、お、と思ったけど、今は村上春樹さんとは違うかなと思って、もう一回転したら、雨月物語が出てきた。なんとなく時節に合っていると思ってこれにした。まだ読み切っていない本だから、読み返しにはならないのだけど。しかし、上田秋成の言い回しのセンス好き。タイトルの由来になっているフレーズ、「雨は晴れて、月は朦朧の夜」、晴れるは旧字で変換できなかったけど、リズムといい情景といいとても良い。月が朦朧ってなんぞやって。そうして例に漏れず、訳者の上田さん愛も読んでいて楽しい。研究ってそういうことなのだろうな。日本の古典も開拓していかねば。タイトルで言うと、蜻蛉日記に惹かれている。蜻蛉っていう字面が好み。古文って今読むととてもリズム感がある。

 

少し遡って、今日になる前。昨日の日記を書き終わって、寝る間際に巡回したら日記がまた4日分更新されていた。朦朧とした意識で急いで読んで、ルーティンで胸の前で手を組んで出てきた言葉は、元気で良かった。全然お祈りじゃないじゃんって自分にツッコミをいれて、何かちゃんと祈って寝た。

 

で、起きて、出勤中考えていたことは、「幽霊を創出したのは誰か」に出てきた、ファッションとか文化とかなんとかもバーチャルだったのだなというフレーズから、むしろバーチャルでないものってなんだろうかということ。仮想って、要は交換可能性と等しい。服は買い替えれば世界から見える像は手っ取り早く変えられる。この小説の時代は肉体も交換可能で、ずっと前のポルノグラフィティーのラララ僕がーで始まる曲みたい。空想なんとかだったような。

 

確かに、今のところ自分の肉体に交換可能性はない。だから、ここにリアルを感じることも分かる。まさに歴史の結晶みたいな部分はあるし。だから、自分のこの結晶化した肉体に付随する精神性をリアルとする気分も分かる。ただ、本当にここをリアルとしていいのかというのは個人的には疑問がある。だって、この肉体に意志は作用していないでしょう。たぶん人が意志というとき、自分の外のことを言っている。

 

仕事はとても滞りなく。こんなにしんどくなくて良いのかなって。たまたまちょっとした面談もあったのだけど、上司とスムーズにコミュニケーションしている自分が居た。この円滑性に至るためには、ということがちょっとわかって来た。

 

 

その前に。本日実家から荷物が届いて、LINEでありがとうって送って頭を稼働していたら、着信が入ってうぇって思ってかけ直した。また愚痴を聞かされるのかと思ったら、おばあちゃんにお礼の電話をしなさいっていうメッセージだけで終わった。で,

かけようとしたら、外部記憶装置であるスマホに登録されていない。内部記憶装置でなんとかなったのだけど、よく発掘できたものだ。もう1人のおばあちゃんの固定電話(もう通じないけど)も再現できたから別にえこひいきではない。

 

おばあちゃんとの会話はとても楽しかった。変な感覚だけど、自分の声を聴くだけで嬉しくなってくれるというのはとてもありがたいことだなと。なんの裏表もない言葉だったから、通話中に僕が発したありがとうは5、6回あったと思う。嬉しいって言われたことではなくて、嬉しそうという声色を見ている。

 

謝るとか感謝の言葉を発することに凄く抵抗を感じていたのだけど、この抵抗値って素朴な僕がそうしていたことではないのだろうなと思った。自分の地位を保つためにこれを遣うのが嫌だっただけ。

 

どうでも良い、いや良くないけど、昨日更新された波さんの日記の中で、同居人さんと接することで嬉しいとか、つらつら思考を発する図を想像して、やっぱすげぇかわえぇなって思ってしまう。しかし、これは何目線なのかとなると分からない。

 

僕で嬉しくなっていることがまだ観測されれば投げ続けられたかなという説もあったけど、何も信号がなかったら分からない。僕の独り言は勝手に投げられているだけと観測されたという解釈で良いのだろうな。嬉しさを供給できないのであれば価値はない。

 

もちろんそれで問題は全然ない。僕は嬉しいと言われただけでとても満たされたので。波さんが夢に出てこないのはこういう意味なのだろうな。夢の中でいちゃいちゃすらできない。ともあれ、別にこの感覚に付き合ってくれなくてもいいのに。

 

 

やれやれ。

 

僕の思考は自分にとって実利がある。考えたことは情報としては忘れたとしても跡があるから、そこをとっかかりにして芋ずる式に再現できる。考えたことを再現できないって、考えたんじゃなくて、精神世界をスケッチしただけではとか。僕もスケッチしたものは全然思い出せない。これって、内界を描写しただけだから、狭義の考えるとは違う。

 

でもなくて、自意識のバーチャル感。僕の日記を読んでいる人は僕が凄く自意識が強固だと読めるかもしれないけど、自意識も仮想のものでしかないような気がしている。

 

というのも、人は基本的に実利しか追求していなくて、その実利に含まれる他人しか認識していない。だとすれば、他人なんてその利の範疇でしか認識できないはず。

 

だったら、他人に観測される自分がその範疇に居る必要もない。

 

自分が他人にどう見えるかを踏まえて現実化する時点で自分ではないということに気づいた。僕がどうするかと他人がそれをどう評価するかは全然関係ない。

 

嬉しいと言われるのは嬉しかった。

 

まぁ、不自由だと思っていることが解放されたときに本当に自在になるのかは想像した方が良い。

 

波さんとはやっぱり余計に会いたくなってしまうな。僕の顔の表情の動きを見ているのを観測したい。これは肉体的好意とは別の好意。文章への好意とも違うからややこしい。

 

この空間を妄想したら、僕はずっと笑っているから表情の動きなんてなかろうな。

 

結局は、なんでこの一回しかない人生でみんな窮屈に過ごさなきゃいけないように見えるのだろうという不思議。

 

僕も一応三次元生活で生きているのだけど、だいたいバーチャルに見えるのは本当の自分までたどりつけてない人が多いからなのだろうな。

 

おしまい。

 

今日は変に好意を発していないはず。

 

 

おやすみなさい。