kaisou

 

 

穏やかな感じで寝たのに、変な夢を見た。旧実家の方で網戸にして昼寝していたのだけど、網戸のすぐ外に大雀蜂の巣があってうじゃうじゃと網に群がっている。網戸の下の方が破けていて侵入されそうになったから、やむなく殺虫剤で撃退したのだけど、なかなかグロテスクだった。無数の蜂の死骸と女王蜂と蜂の子と。そういえば、現実の旧実家の二階の雨戸のところに蜂の巣の残骸があった。あれを残しているのは何か縁起物だったのだろうか。

 

雀と言えば、金曜日に弁当を食べていたら、やたらと懐っこい、ご飯をねだってくるのが1羽。院の時にコンビニおにぎり食べているときに米粒食べにベンチに上ってきた奴との類似性。与えられることに対する需要は一緒か。

 

 

ともあれ。少し飲み過ぎた次の日は、精神と物理的肉体が近くなる。本物の二日酔いになったらそれどころではないのだけど、ちゃんと自分が肉体に基づいているという認識。風邪の時と一緒。風邪は現実にかまけて蔑ろにしたツケのような。毎年風邪引いていたのにここ何年年か引かなくなった。邪気がない。

 

そうして、書けないことをして、水分補給のために外に出た。コンビニの手前の自販機でファンタグレープとポカリを購入。個人的にファンタはグレープよりオレンジが好きなのだけど、自販機であんまり見かけない。メロンに至ってはドリンクバーにしかないし。

 

ポカリの話。スポーツドリンク系は、幼少期とか小学生までは風邪の象徴みたいな、体調が悪いときに飲むまずい飲み物だった。高校になって水分補給の為に飲むものとして美味しくなった。マッチとかライフガードの方が好きだったけど、練習とか試合中はアクエリアスを飲んでいた気がする。そうして大学以降は、二日酔いの後の水分補給になる。ポカリスエットは糖分が多すぎると聞くけど、こういう系の飲み物の中では一番美味しい。グリーンダカラは変な汗が出るし、アクエリアスは薄いし。経口補水液は飲んだことないかも。

 

味覚の変化に対して自分が成長したと認識できる人はとても健全だと思う。確かに忠実に経験則だし。例えば、自分が不味いと思っているものがとても健康に良いと認識して食べたとしても、不味さが更新される訳ではない。不味くても食べなければというルールが形成されるだけ。

 

自分の体を限界まで動かすという意味では、僕は長距離走が結構好きだった。ランナーズハイの感覚は肉体を前提としながら、肉体とは離れている。

 

さておき。

 

何を現実とするかの話。昨日は最後の方適当に書いている。もっとしっかり考えねば。

 

たぶん考えることが疎外になるという観念は、新しいことを何も取り入れない環境にあるからだと思う。素材が更新されないのに既存の素材だけで考えるなら、そりゃあ閉塞的なことになる。これでは考えることはどこにも向かわない。

 

でも、どこへも向かえないからこそ定着できるという観念はとてもあり寄りのあり。反省的思索は自己解明にとってはとても大事。

 

僕は、人が現実としているものはだいたいバーチャルなのではないかと考えている。もちろんそこに実感があれば特に問題はないし、だいたいの人はそういう風に生きている。物理的な世界が現実だろうと反論されたら、物理的な世界をどの水準で見ていますかって再反論したくなる。ニュートンさんのかアインシュタインさんのか、ひも理論なのか。

 

まぁ前提を省略できることはとても合理的である。僕もあえて他人にいちいちそんなこと聞かない。あえて聞いてみた人は何も答えてくれなかったけど、それはそれで合理的だと思う。

 

ところでというか、僕の個人的な現実感だけど、僕は現代の一般的な知識水準にすら届いてないという感覚が拭えない。ただ、この認識が僕の現実に寄与するのかというのは別問題。基本的に、他人の認識に対して齟齬がなければ、どこにでも生きられる。

 

これができないことが、自分を大事にしているかというと全然違う。本当に守るべき自分があるなら、自分がどう見えるかなんてどうでもいいはず。

 

他人からの印象値なんて、コントロールしようとすればいかようにもなる。啓発本っぽい説だけど、素朴に考えて他人の印象を自分がどう決めているかから逆算すれば自然な結論。

 

他人なんて基本どうでもよくしか見ていない。どうでも良くなるのは価値があるとき。だから僕は、価値がないのに捉えてくる人格が気になる。

 

 

この文脈から考えたとき、自意識って、情報格差なのだろうな。自分の情報は一番自分が持っていて、でもそれが現実化できない齟齬に対する葛藤。

 

僕はそういうのはもう終わった。自意識をどれだけ表明したってまるっと捉えられることはない。というか表明できたことがない。

 

だから、ここもバーチャル。

 

でも、バーチャルであることと現実であることに価値の違いなんてないという主観。なんでそこで分けなきゃいけないのか。

 

好きと大事の違い。好きは確かにバーチャルで、大事はリアルに近い。僕は直近の元恋人さんのことは大事だなって思ったけど、当人は好きだって言ってほしいってことで別れてしまった。嘘は言えない。

 

好きに現実的価値なんてないのに。波さんはその辺よく把握しているような感じ。だから好きって言える。買いかぶりかもしれないけど。

 

好きは、継続性を前提とする言葉ではない、刹那な概念。好きだから何をしても良いみたいな無軌道性もある。僕はそこまでのことはないけど、波さんに対する好き概念はとても切なくて良い。

 

全然美化してなくて、僕に対して発してくれた言葉と現実を前提として。だからやめておけと言ったのに。

 

あともう一つ。好きの観念の純粋な領域は交換ではない。だからこそ、ちゃんとまともに生きている人はこんな文章読むべきでない。

 

最後。僕が他人にどう見られるかもバーチャル。これは現実世界で過ごしてきた集積だけど、元気っぽく感情豊かっぽく表明できれば、それが僕の現実になる。全然中身と違うけど。

 

つまり、これくらいの水準でしか人は人を把握していないということ。翻って言えば、自分すらこの水準。

 

波さんとは思考を交換できるかなって思ったけど、まぁ全然必要ではないから返信がないのも分かる。とても好きだ。

 

おしまい。