はためいわく

 

 

 

二回外に出たけれど、今日は良く寝た。眠いから寝るのではなくて、寝転んでいるから眠くなる感じ。夢は見過ぎて描写できない。夜に出かけたときに見上げた月はちょうど半分。明日からは遅番だから、月を見上げながら帰ることができる。

 

さておき。昨日の日記の一部は恥ずかしくて衝動的に消してしまったけど別に残しておいても良かった。愚かな中身がとてもよく描写されている。あんまり分析することにも意味はないのだけど、まぁ良いか。

 

恋愛感情を前提とした思考の無軌道性とおこがましさと周回性。自己観測だと無為さがよく分かる。考えるの体はなしているけど、事象と結果を繋げる道具が願望だからまったくもって説明になっていない。ついでに根元にある感情も対象も概念ですらないから、どこまで潜ってバラしてもどこにも向かえないし辿りつかない。願望は期待と想像の中間くらいにあるものだから、こうに違いないでもないしこうだろうでもなく、こうあって欲しいだけど、この願望が僕に都合が良い訳でもない。願望は基本的に都合が悪い方に向かう。

 

こういう不毛さが醍醐味だけど、これって別に言語化する必要もあえて見えるところに置く必要もない。必要というか、効果か。この不毛さをごまかすためには、基本的に効果に向かわなきゃいけないのだけど、僕はこの効果という名の現実化は求めていないという。だったら不毛さは自分の中で味わっておけよと思う。

 

バーチャルとリアルの話で、とりあえず、人は物理的な肉体にまつわるものを現実としているのが現在だと思う。たぶん、人格とか精神より価値が置かれている。人格や精神がより剥き出しになるのはSNSの世界だけど、ここにおける他人への信ぴょう性というのは、リアルよりもとても軽い。それは、肉にまつわる不都合性を捨象できていうご都合性にもよるだろうし、このご都合的世界では、まず自分が偽っているという前提もありそう。

 

別に良いとか悪いとかの話ではなく、何を重視するかの話。僕は、肉体の檻の枠で観測する人より、そこから離れたところに在る人格の方がよりその人の本質なのだと見るだけ。別にコメントなんて返さなくて良いし、相手のことを見るかどうかに対してもなんの制約もない。制約があるとすれば、リアルから離れ切れていないということで、それも当人次第だからなんの問題もない。何故不自由性を感じるのかもなんとなく分かるのだけど。これも情報格差の話。でも、リアルの方が自分の情報を発信できていると思える前提はどこにあるのだろうということは気になる。リアルにおいて自分の意志を働かせることができる領域なんてほとんどないような。

 

幽霊の近未来SF小説の中に、100年前の経済学者が「人の言動はすべて宣伝だ」と言ったというフレーズがあった。時代設定が100年後くらいだから、今の最新経済学者にそういう人が居たのかと思うけど、フィクションだから本当のところは分からない。しかし、ここ数日の思考と繋がってなかなか腑に落ちた。

 

宣伝の定義は、たぶん需要を増やすというところに根がある。情報も宣伝らしく、つまり、ちょっと誇大表現になるということ。例えば自己紹介に苦がない人は、自己を宣伝することに違和感を抱かない人。苦がある人は、自分を宣伝する意味をいちいち考える。要は自己観測を何の為にするということになりそう。僕は後者側だけど、別に宣伝することに意味はないとしている。勝手に評価してくれる人は評価するし、あえて自己宣伝を言語化できるのはしたたかだと思うけど、それで相手に対する評価が左右されることはない。

 

この意味での宣伝で他人のことを決める人が居たら、よほど情報リテラシーないか、世界が言動で決まっていると思い込んでいる人だなって思う。もちろん就活とかになってくるとそこしか情報がないから、どれだけ宣伝できるかを見るのは分かるけど。

 

これを自己表現の文脈にすると、自分がどう自分であるかの宣伝か、自分が依っている思想への宣伝で、どちらにせよ、肯定的な需要を増やすためにある。議論でも、結局は自分が正しいことを宣伝したいという文脈なのかも。

 

僕にはこういう感覚は一切ない。需要が増えることはめんどくさいまである。別に吐き出しでもないし、ここに書かなくても僕に何か不都合がある訳ではない。観測されることに意味があるのではなく、観測している人の意味が気になるだけ。まぁ更新されるから読むという機械的な動機も分かる。僕も自分が可視化できる形で更新してくれないと読めないし、商業的な更新だったら課金すれば寄与できるけど、それができない領域では待つしかできない。

 

森博嗣さんの小説が好きなのは、定義がしっかりしているから。概念なのかな。希望は個人の内側にあるものではなく個人の周辺にあるものだとか。全部読むほど好きではないのだけど、すべてがFになる、の系譜の話しか読んでない。

 

現実と仮想の領域があいまいになっているのは、別に精神に異常をきたしている訳ではなく、化学の最新知見を取り入れているから。相対性理論は光速に近い速度で移動しないと実感できないということだけど、なんとなく、もともと感じていた違和が説明されている気がする。相対速度は、精神的速度にも適用できそう。精神は物理的ルールには従ってないから。

 

こうして、リアルが塗り替えられるものでしかないというのは、コロナ禍でも実感されただろうけど、だったら、ほんとうに不変なリアルとはなんぞや。

 

僕の結論としては、案外可視化されない気持ちではないかと思っている。切なさとか嬉しさとか、対象と相関していないもの。対象と相関していないといけないものは交換性がある。条件付きというか。

 

そういえば、昨日の日記で思考の交換とか言っていたけど、これは対話では不可能なこと。会話しながら思考を宣伝するのは、ごくごく限られた領域ならありうるけど、全人格的には無理。

 

だとすれば、もう実現しているような気がしないでもない。これは願望の話ではなく、そう読み取らざるを得ないという意味で。だから嬉しいということもないけど。むしろ大丈夫かなって。

 

あと二十数回好き好き書き続けるのも、なんだかなぁとという感じだけど。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。