ほんとのところ

 

 

 

昼休憩がおやつタイムくらいの時間。雲でフィルターがかからないと直視できない太陽の光。とても真っ白。都市計画なのか駅ビルの庭に咲いた花にはちゃんと名札が付いている。なんとかキク。頭の中に画像的には名札の記録もあるのだけどなぜか言語化できない。

 

さておき。

 

今日の夢の舞台もやはり実家をモチーフにしていたのだけど、なんか立体感がおかしかった。廊下がやたらと狭し。そして、なぜか出てきた羊と馬。羊は見かけただけだけど、馬は撫でた。現実の馬の気持ち良い部分は定かではないけど、鼻面を触っていたらとても気持ち良さげだった。笑う馬。飼育係(ここでは妹だった)が、撫で方を教えてくれようとして、まぁ大丈夫かという感じで何も言わない。その後もりもり草を食べている姿を見て、とても気持ちが良かった。

 

しかし、感触はなかった。夢で感触があるときとないときの違いはどこにあるのだろう。まぁ現実でも同じか。自分の体が接するすべての感触なんて感じてられない。

 

なんのメタファーだろう。なんでもいいけど。

 

リアルの話。

 

後ろにある半月をちらちら眺めながらいつものスーパーに寄ったら、たまたま推しの店員の女の子が買い物用のかごを入り口に片づけていて、少し待つかと思って立ち止まって居たら、かごを渡してくれた。これだけだとなんとも思わないのだけど、ちゃんと取っ手を立てて持ちやすくしてくれたところにぐっとくる。ついでにいらっしゃいませの発語。思わずありがとうございますって言ってしまう。やっぱりすげぇなぁって思う。我ながら基準がおかしいけど、こういう、枠の中で許されている限りの最大限をやってくれることはとても気持ちが良い。別にやってもやらなくても良いし、それを見ている人なんてほとんど居ないだろうに。

 

たぶんお客さんのこと結構覚えている人だろうなという想像。願わくば良き客として認識されていればよいけど。

 

(あれ、なにやら変な既視感)

 

コンビニの店員さんも結構客のこと認識している。これは経験則だけど。あえて覚えている感を出さないまでも、行動が省略されているのが見える。僕はマイナーな煙草頼むから余計に、今日は買うのかなって思っているかどうかでよく分かる。知っていそうな人には銘柄で、新人さんとか留学生には番号でとか。

 

何のリアルだこれ。

 

もう少し遡り。向かいの同僚さんとの雑談は楽しい。別にそんなにいっつも話すわけではないけど、興味持ってくれているのだろうなということを表してくれるから、僕も同じ水準で返す。受電が入れば途切れるのもなかなか楽しいこと。

 

なんでこの仕事選んだのだって聞かれたから、近かったからって答えたけど、そんなんが基準なんかいってびっくりされた。その先を話す前に途切れたから説明はできなかったけど、まぁそう捉えてもらって問題はない。

 

そもそも、仕事ってそういうものではなかろうか。やってみないと中身なんて分からないし、何か理想を前提とするほどあれだし、基準を増やすことで何か有利になることもない。なにせ一番は、中身に居る人たちの人間性だったりするから、どんなに条件が良くても運ゲーみたいなところがある。

 

もっと言えば、人生という、自分が自分であることすら自分で決めたものではない。これだってやってみて、というかやらざるを得なくて折り合いをつけているのだから、この流れでの選択的意志の脆弱性よ。もちろん雑談時間がもっとあったとしてもここまでは話さないけど。資格試験の勉強をしているから時間を確保できて負担がない仕事であればなんでも良かったし吟味する時間も無駄だったということくらいは言うかもしれない。

 

そうして、興味のお返しに、一ヵ月くらい前シフト云々の話をしているときに7月の連休に追加で休みを入れて、どこか旅行に行くって言っていたから、行先決めたんですかって聞いてみた。

 

遥か北の島に行く予定を立てているらしく、なんでそこに行きたいかというと自然が綺麗だからとか。とても良き趣味。

 

ちゃんと現実でこれくらいの疎通は取れる。ただ、思うのは、僕にとって会話ってヒアリングするための道具なのだろうなと。会話で本音が言えた経験則が一切ない。どれだけ物理的関係で近くても、というか近ければ近くなるほど言えなくなる。これって、たぶん、感謝とか好意的発言が自分への効果に直結するからだろうな。いや、そんなことの為に言動してないってなってしまう。いや貰えるものは貰っとけっていう観念も分かるけど、僕はそういうの駄目だった。だから、近しい人との会話は薄くなる。薄いの意味は、いちいち自分と相手の文言を考えなくて良いから、再現できないということ。ある意味とてもバーチャルな世界だった。確かに、これが生活だって定義されたら、うむ、とてもよく分かる。貰うために与えるとか。

 

まぁ良いとして。

 

定義の話。

 

読みたいように書けば良いっていう本を立ち読みしたのだけど、その中に、定義したものは忘れないというフレーズがあった。その一例として、趣味の定義があり、切手の収集癖について手段と目的が逆転したものとか書いていたのだけど、これって網羅的に定義できているのかと。確かに一部の定義はできているとは思うけど、だったら旅行は何の手段なのか。

 

僕は国語辞典的な定義は枠だと思っている節があるからなのかもしれないけど、定義は結局人それぞれでしかないと思う。

 

趣味の網羅的定義は、目的とも手段とも関わらないものに対する選好で良いような。何かの効果を求めるのであれば、それは啓発ないし、ストレス解消の道具になる。これはカントさんの判断力批判からの流用。

 

で、罪と罰を読んでいて思うこと。ドストエフスキーさんは、人の頭の中身に自分と同じように文字が溢れている風に観測していたのかもしれないという観測。手紙も発言もいちいち長い。

 

僕としては、人の頭の中に文字はないという説を推したい。書いたり話したりすれば文字にはなるけど、自分の中だけで考えるときに文字を遣うのはとても非効率。言葉は枠だから、いちいち枠にはめて考えてはいなくて、もっと言語化されないイメージで思考している。どう思考したかと問われたら、言語でしか語れないから言語化しようとするけど、宣伝要素も関わってくるから、ずれが生じる。

 

あの本、書けば書くほど世界が狭まるというフレーズもあった。確かにそうだと思う。人の日記とか見ているとそう思う。僕の日記はどうかというと、見ての通り。

波さんと接して(いやほとんど関係はないけど)楽しかったなと思うところ。

 

ほぼ過去形にしているけど、別に過去も現在も未来もない話。

 

普通に考えれば、とても気持ち悪い発言をいっぱいしているから、それでも嬉しいってなんぞやってずっと想っていたけど、このブラックボックスがあるから楽しかったのだろうなって。もっと普通に考えれば、現実的な文章から見たこの人を踏まえたら、とっくに終わっている。

 

つまり、普通に考えていけない。人は理解したいようにしか理解しないの反対になって困る。忙しいのに読みに来ないでよって。

 

楽しさを提供してくれてありがとうございましたで良いか。

 

おしまい。

 

あわよくばぐっすり寝ていますように。