たがため

 

 

 

強めの雨の中を歩いているといつも思う。自分は傘の差し方とか雨の中での歩き方がとても下手なのではなかろうかと。裾とかびしょびしょ。こういう時にふわふわしている服を着られる人はすげぇ。でも、見ていなかっただけで(見ようとしていなかっただけで)、みんなびしょびしょに違いない。傘の形状と面積からして足元が濡れないはずがないし。傘というのは一番大事な頭部が濡れないようにするだけ。足元を守るなら長靴だ。長靴は好きだったけど、今や持ってもいない。

 

激しい雨って何かそそるものがあるのかな。自分に被害がないところから眺めている人を何人か見かけた。被害があるところでおーって言っていた人は、なぜか上司と相合傘をしていたけど。男性同士。肩の濡れ方で立場が分かる。コンビニの目の前の灰皿だったから傘買ったら良いのにと思ったけど、傘にはお金は使えないのかもしれない。傘も買えないという意味ではなく。

 

しかしながら昨日の日記の誤字脱字もすげぇ。直したけどやはり書くときはコーヒーとかの飲み物だけにした方が良さげ。こういう不便さは自分で実感しないと改善しない。

 

今日も色々考えた。

 

僕はほんとに自分のことを考えているのかと考えると、厳密には自分が何をどう知覚しているか、感じているかということを思考対象としているだけで、自分自身がどうであるかは対象になっていないような。後者の方はどれだけ考えてもどこにも届かないけど、前者の方は自分が外界に対するときの精度にかかわりがある。

 

そこで、自分が進歩ないし変化しているのかをどう考えるか。まず何をもってそう定義するのかが問題になるのだけど、純粋に主観的に見たら、何も変化していないということになる。だって、自己感って過去の集大成の「今」だから、常に集大成について変化があるかを問うことだもの。この観測軸だと変化は捉えられない。

 

で、過去の自分と比較してというような相対的視点で見たらややましだけど、ここでいう進歩はそもそもなんだろう。自分ができないと思っていたことができるようになったとか、結果を出しただろうか。だとすれば、ここで問うべきは、本当に過去の自分はそれを変えようとしたのかという部分。変えられないと諦めていた過去が今になって突然変わる訳がない。よほどの環境の変化があればあるいは起こるかもしれないけど。

 

結局は今、何を変えようとするという起点が変化とか進歩なのでは。というのもいまはいずれ過去になるから、過去を顧みるエネルギーも未来のために使うべき。

 

個人的なところでいうと、僕はおおむね自分がほんとうに決めたことはとくに抵抗なくするようになった。別にご飯に価値を置いている訳でもないのに弁当を毎日作るし。これには、外堀(買いに行ったときの行列とか濃い味のご飯を毎日食べるのが嫌だとか、天秤の反対側を軽くすること)を埋めたりして調整が必要だったけど。タバコはたくさん吸うしお酒も毎日飲んでいるから自己統制に説得力はないけど、何を統制するかはまぁまぁ決められるようになってきている。

 

毎日書くのもなんとなく試みみたいな意味でしかないけどやっているし、毎日本も読んでいるし、自分の体はまぁまぁ都合がよく動かせるようになってきている。

 

まぁ、飲み過ぎて余計なことを投げてしまうことはやめれば良いのにとは思っているけど、ほんとうにやめようとは思っていないというか、投げたい人にしか投げてない。善い意味ではなく、早く嫌われれば良いのにという投げ槍的な感情があるから。こういう意味の本音はあんまり言うべきではなかろうな。一般論としては。まだ言い足りない。

 

自分の体が動く感覚というのは、とても意志的。これをしたら自分にご褒美があるとか、これをしなきゃ悪いことになるっていう義務感とか、しょうがないからするという諦観とは全然違う。ただこれをする、こうなるって決めたらそうするだけ。このやり方が合うのは、報酬がドーピングにならなくて、義務を設定しないと行動できないなんてことがない人だけかと思われる。需要と供給の対価関係で世界のだいたいはできているから、特に独立した自分を設定する必要はない。

 

あと、もちろんだけど、自分から出てくる感情は禁圧してはいけない。感情と現実が一致することが報酬なんてことも思わない。それはたまたまというか奇跡のようなもの。その為に動くのは無謀過ぎる。

 

 

ところで、SF小説の話で、人格をコンピュータがトレースして人工的に当人を精製するという話があった。ここで、どんな情報を学習させたら自分と同じ人格が精製されるのかって考えたのだけど、どう思う?

 

 

 

まるっきりな人格、外に出てこない思考まで一致することは不可能だろうけど、どういう風に話すか、人と接するかみたいなリアルな人格ならできそうな気がすると考えた。リアルな部分ってかなりパターン化できる。気分によって変わるアルゴリズムも何十年分かの情報量があればきっと学習できる。

 

確かにこれは、ある意味その人の現実的人格のコピーで、たぶんこれが人の最大公約数的なリアルの定義。僕のリアルのコピーなんてすぐ作れそう。凄いですね、へぇーみたいなパターン的な発話だし。

 

でも、人って他人のこういうところしか見ていない、自分にとってどう観測されるか。自戒だけど、僕も自分とどれだけ近い人に対しても、自分に対する言動でしか相手を見られなかったし。何がほんとうかで言ったら、思考の描写である日記よりは現実的反応の方が重い。

 

SNS的人格の方が重いとしているのは、リアルでの人の言動ってパターン化されているという前提があるから。リアルで言わない言えないようなことをのたまっている人格とはちょっと違う。

 

そういえば、元々恋人さんが浮気している当時、日記を見つけて、ある意味では美味しかった。かなり抽象的に書かれていたけど。タイトルは「砂の上のお城」。痛くて美味しいってすなわち辛いか。

 

僕の人生の女性関係ほぼ辛かったな。

 

僕が観測される立場になったら、好きに見れば良いと思う。何を選ぶかは僕が関与できるところではない。要は、人の本質はやっぱりなんだかよく分からない中身にあるのだろうなということ。何の目的も効果もないところ。

 

 

そういえば、文学フリマを調べたらどうやら9月らしく、このままだと試験とは被らないから行けるみたい。匿名的読者としてしれっとステッカーと新刊を採取することを目論んでいる。人のことそんなに覚えられなさそうに観測されるから、マスクと眼鏡で武装して演技をすればなんとかなるかも。たまたま見かけて立ち読んで、、、

 

いや、かなり無理がある。嘘は付けないし、なぜだか認識されているし。であれば逆に、好きですって笑顔で言えるような練習をしといた方が良いか。

 

なんだか暗喩的な恋文みたいになっているけど、まぁしょうがない。ここ自体がそういうものだし。

 

では。

 

あわよくばもっとぐっすり寝られていますように。

 

おしまい。