しょうこ

 

 

20時前でも随分と空は明るくなった。月は雲にかくれんぼしていたけど、家に着く直前に6.5分目で浮かんでいるのを見つけた。そう言えば、出勤中に色彩に注目していたら、ふと色鬼を思い出した。あれってどんな遊びだったっけ。色を宣言してそこに触れている間は捕まらないだったら、その解除条件ってなんだってなると、色を宣言するのは鬼だったか。しかし、色が認識できない人はいじめられそうだ。あと、影鬼も思い出した。あれは確か1つの陰に10秒しか留まれないみたいなルールがあったような。あぁいった遊びって今の子供たちはしているのだろうか。あまり注視していないけど、公園で走り回っている子供達はとても無秩序に見える。だるまさんが転んだとかもしないのだろうなぁ。

 

はないちもんめとか今や人の平等性を阻害するから禁止令がでそう。あの子が欲しいーって。何を目的とした遊びだったのかも定かではないけど。まぁ総括すれば、世の中にはルールがあるということを染み込ませるものだったのかも。知らんけど。

 

そういえば、いくつか前のなんとかキクの看板をもう一度見て焼き付けた。シロタエギク。全体的に人工物みたいな植物。葉っぱはやたらと白い。あの看板って結構どこでも見かけるけど、行政で統一されているのかな。京都の植物園とか何処かの高山でも見かけた気がする。

 

新刊枠をまた読み終えてしまい、次の本を探さないといけない。有力枠は、○○と厭世という暗そうな雰囲気のハードカバー。○○のところは忘れた。たぶん諦観だったかなというくらい。精神科医の人が書いているとかなんとか。あと、綿矢りささんの本がちょくちょく目に止まるからこちらも気になる。蹴りたい背中が面白かったかというと微妙なところなのだけど。蛇にピアスの方が良かったかも。

 

 

新刊枠の話。リアルとバーチャルの話がとても面白かった。もうVRの技術もむちゃくちゃ発達した世界だから、頭の中を仮想世界に移動することもできる世界観の中で、自分の肉体を固持しないといけないのは何故だろうと主人公が考察しているのが思考とリンクする。自分の肉体の重みの安定感を絶対座標としているとのこと。賛成。

 

僕がこういうどうでも良い肉体から離れたことを思索できるのは、肉体的リアルの強固さが揺らがないから。精神に肉体が流れない。

 

あと、自分がどうしてそう感じるかが分からないとも言っていた。これもよく分かる。ここは考察ではなく観測がそぐう手段。理由なぞ不要。

意味というのは価値があるというフレーズもあり、なかなかちょうどよい本だった。ここでいう価値というのは、経済学でいう希少性に近そう。

 

さておき。

 

あまり分ける意味もないのだけど、現実世界の話。繁忙期は楽しい。余裕がないときほど人の本質が見えるなぁって。ちょっとしたトラブルに対応したときに、「主婦ですからそんなに待てない」ってフレーズが出てきて、いや、あなたが主婦であることと仕事にどんな関係があるのですかって思った。いや、心情としては分かるし、待っている家族はかわいそうだけど、情と仕事は関係ないし。割と防壁が建設されてきている。うまくあしらえたはず。

 

もう少し話は抽象的になって、証拠とフレーズが複数人から出てきたところから証拠について考えた。

 

証拠って聞いたとき、どういった定義が想起されるだろう。人それぞれは個人個人の定義だろうなと思う。そうして、定義には効果というか振動というか外に影響がある。ここでいう証拠は、それを前提として判断できるような事実ということだった。

 

もう少し潜って。法律学の世界だと、証拠って、証拠の外にある物事を推論するための道具みたいな意味がある。凶器のナイフがあります、指紋がついています、であれば、指紋の持ち主が凶器を使ったんだみたいな。民事でも、証拠は独立した存在ではなくて、何を証明したいのかとセットのもの。であるならば、さっきの証拠も、相手がこう言っている。であるならば、相手が言おうとしていることを証明できる外的な証拠物があるはずだという意味になる。

 

まぁ厳密にリアルを考えればこうなるのは分かるけど、素朴な世界において証拠物なんてそんなに必要とされていない。なくてもなんとなく不具合なく過ごせるし。

 

じゃあ何でもって人は生活しているのだろうと思うと、証拠より印象の方が強い。自分の言動も印象で捉えているし、相手の言動だって印象から外れるようなことは見えない。

 

さんざん前置きしたけど、この思索での結論というか最初に思い付いた命題は、気持ちの証拠は言葉ではないということ。言葉は順番で印象が変わる。

 

好印象な言葉なんて言おうとすればいくらでも言えるのがまず1つ。自分をよく繕うために使おうとすればいくらでも利用できるのが言葉。次に、エネルギー消費の面で見ても、マラソンするわけではなく声帯を震わせればいいだけだから、かなり省エネ。

 

にも拘わらず、言葉に意味を置けるならば、自分の言葉にかなり重みをおいているのだろうと観測されるけど、それはエゴではないかと思う。言葉の扱いなんて人それぞれだし、自分が遣っているように相手も遣うなんてとても傲慢な考え方。自戒。

 

だとすれば、相手から表明された言葉を介した気持ちは何で証明されるのか。これは継続で見るしかない。厳密には持続だけど。

 

意味分かるかな。僕もあまり分かっていないけど、そういうものだろうなという感じ。

 

書くべきか一瞬迷ったけど、書くか。

 

嬉しいって言ってくれた言葉の意味は、たぶん観測が続いていることで証明されている。忙しい合間にほんとに読みに来てくれているのかというはなかなか疑わしいところだけど、これは一般論が阻害している。

 

僕としても、この期間はとても楽しかったです。その証明は日記参照。

 

逆算で、僕は言葉が自分の証明になるとも思っていない。本心でしか書いていないけど、本心だからといって、すべて現実なのかというとそうではない。現実は現実で、言葉の外に在るもの。まぁ、この世界において現実なんてあまり意味を持たないけども。

 

 

もうちょっと前に気づけばよかったけど、いつも遅いのがデフォルトだからしょうがない。いつになったら追いつけるのかも分からない。

 

まぁ、新刊楽しみにしています。

 

では、幸せでありますように。

 

おしまい。