物語は言葉の前にある
地獄甲子園の絵柄のような夢。打者が1塁ベースではなくピッチャープレートに向かう。
昔読んでいた時期の今はなき月刊少年ジャンプにちょうど載っていた。小学生時だったような。うちの親が漫画にはオープンだったから、エログロも問題なかったらしい。僕の土壌はこの週刊誌にもあるのか。あんまり覚えてはいないのだが、ぎりぎりプリン(ちょっとエロい)と鬼神童子ゼンキだったかな、は結構読んでいたような。
鬼神童子は前鬼と後鬼が居て、炎と氷で、主人公が役小角の末裔で、ということは覚えている。悪役でブラックが出てきたような。あの話どこに行きついたのだろう。どこに行きついたか知らないといえば、バスタードはどうなったのか。ちはやふるは完結したのだっけ。
と、いう感じで、漫画の終わりを全然気にしていない模様。
自分が目にする物語がすっきり起承転結になるとは限らないし、そのとき面白ければ良さげ。
週刊少年ジャンプも読んでいた。テニスの王子様の初期とかシャーマンキングとかるろうに剣心からの武装錬金の辺り。リーダー伝たけしもあったか。ガッツ島編が好き。たしかにきちんと少年漫画をしている漫画も楽しんでいたが、僕が当時最も好きだったのは、封神演義だった。藤崎竜さんは短編集も買ったが、すっきりしているというより、不可解さが残る話ばかり。この前散歩中に読み返したのだが、夢と現実のパラレルワールドで、現実界は殺伐としていて、カニバリズムもあるという感じ。たしか超能力者の話が良かったような記憶があるが、まだ辿り着いていない。
からくりサーカスも別にそんなにスッキリ終わらない。最後に登場人物が総登場して皆笑っているシーンは痺れるけども、結構皆しんどい人生。それでも笑えるのが良い。
よくわからない物語と言えば、小説界では村上さんの作品がある。だいたいが知り切れとんぼみたいな終わり方ですっきりしない。ノルウェイの森も緑に電話をかけるシーンで終わる。あなた、いまどこに居るの?
スプートニクの恋人もそんな感じだったような。
何か発端があれば出てくるはずだが、今は全然出てこない。
言葉を綴ることが物語を構築することだという河合さんと小川さんの対談本の記事を読んだ。人は耐えきれない感情をストーリー化している、みたいな。
たしかに分かる。物語としてしか語れない感じの中で生きるしかない。
ただ、僕のは物語化している訳ではなく、物語が先にあってそれを言葉で描写しているだけだなと気付いた最近。言葉によって楔が打たれることもない。脚色もしてないし。
今日は物語の話か。
ちょっと戻って来て、現実的日記的日記。
仕事は特に恙なく終わる。人の手抜きが見えるのはイライラしているのではなくきっと仕様でしかない。古参の先輩こそ手を抜いていない。意識は時々抜けているが、ほんとに抜けているだけ。
空いた時間にレシピとか食材の知識を仕入れつつ、うとうと。
ほんとに活動的な職場にするなら、このご時世では歓談はできないとしても、チャットみたいな場を作って、本日はこういう知識を仕入れましたぜうへへ、ここの情報が更新されてますぜくへへ、みたいな知識のアップデートを共有するようにした方が良いのだろうが、皆自分の場所を確保することで手いっぱいにならなきゃいけないと思い込んでいるのだろうな。
先生とか上司だって更新が一元化されていない以上、情報の最新版が常にやってくるチップが頭に入ってくる訳でもないし、仕事に使える知識は常に共有できるようにした方が、皆楽になる気がする。
攻殻機動隊の世界観みたいだが、人の意識的な脳は情報の洪水に耐えられるのだろうかと思いつつ、テレビがまさに情報の洪水であって、自分に残すべきところだけ拾うのだから、問題はなさげ。世界は常に当人の世界観に集約される。
そうしてノー残業で退勤。まだ2日も残っているから弁当が捗る。デリッシュキッチンのレシピを再現。鶏胸肉のネギダレみたいなやつ。料理酒がなかったからビールで代用した。うまい。これはまた再現できるから、パートナーさんが所望するなら振る舞える。
物語ってそもそも何かというと、分からないことを分かるように切り分けるという意義なのかな。納得という世界観。
そういえば、本日、社会のデザインをふと考えた。
安全、安心、快適を構築するための設計思想。
例えば、法律(刑法)は人の固体を守るためにデザインされている。物理的な肉体とか、所有権とか、名誉のような固体化されている人格とか。この意味で人は独立して尊重すべきだから、許可なく越境すると犯罪になりますよって。ただ、安全は人が自由に動く限り、100パーセント保つことはできない。
安心は、もう少し引き延ばされた人格で、保険とか年金とかの未来にもなるし、過去の自分と今が切り離されているとかもある。永劫安心も社会的にはありえない。むしろ不安を煽って安心の為に何かしら課金されるみたいな感じがあるのだが、これはきっと僕が社会不適合者だから。
快適はもっとややこしい。ほとんど主観の独立的なもの。芸術にも拡がるし。
心地良いとかちょうど良いとか、美しいって、物語化できるものでもないし、哲学が美を追求している意味も分かってきた。
効用があるという意味の快適だと、人間工学の範疇になりそう。
不快がないというのがきっと居心地が良い場だろうし、ただ、不快によって場を気持ちよくするという建築学的な思想もあって、なかなか面白い。
彼岸花が好きな僕は彼岸花を見ることによって快適になっているかと言われると、全然そんなこともないし、愛でられる自分が好きだということでもない。ただ良いなって感じているだけで、それを共有してくれる誰かを欲しいという欲求はない。カントさんとかは美は誰かにも共有されるべきという感覚だとしているみたいだけども。
対岸のイメージだから、こっち側の花とはなんぞやという言葉遊びをしてみる。此岸花というネーミングはどうだろう。
言葉と実体が一致しているということから切り離しがある。
自分に正直に言葉を語っている人でも、結局は自分の中にある語彙しか選べないし、それが当人と一致しているかって誰にも証明できないし。
日本語は色合いがグラデーションだからややこしい。
次の日本語が定着したら、「好き」の多元性も古語でいう「おかし」とか「かなし」みたいな語句説明が出て来そう。
もう待ち合わせに遅れているが、もう少し。
レンアイ的な「好き」は乾きだが、安心的な「好き」はうるおい。
乾きに依存するつもりもないし、ここはもう良い。一生好きだという意味合いは、一生乾いているということでもなく、ただ、世界線が離れても幸せで居てくれたらええなぁという余剰。緑が読めなくなった物語の外で幸せになったらええのになというくらいの重さ。
パートナーさんという呼称はきっと最後の人だし、もっと自信を持ったら良いのにという次第。
はい、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。