思考の坩堝

避難所

ありふれた

 

 

 帰り道の梅の花がどんどん増えていく。なんだか楽しくなってカラスの森の横の道で歌っていた。仕事のおかげか息のコントロール領域が増えているような。さよならとーいっしにーおしえてほしかったよー。この声の出し方私的な領域ではさっぱりできなかった日曜日。

 見頃だったら長居公園より万博公園に行きたい。思い出を交信したいというか。たぶんあの人と行ったよなぁと断片的なイメージが想起された。花見はあっても梅を誰かと見るのはなかなかない。過去はのっぺりした時間の流れではなくて時々鮮明に今に影響を及ぼすイメージだろうなぁと思うと、父親が倒れた姿が思い出された。雪がちらつく中、父親の顔に触れる指の感触。ごつごつしていたような。そのまま一度も目を覚ますことがなかったなぁ。センター試験間近で対策に行っていた高校の近くに病院があったから何度かは足を運んだのだろうけど、そこのイメージは残っていない。病院なら祖父が治療の影響で腕がぱんぱんに腫れていたことの方が強い。

 影響というと、その時の感情に「いま」が支配されるというニュアンスを含んでそうだけど、そんなことはない。自分だけが再現できる映画くらいな感じ。感情に響く映画を見た時の他人事みたいな自分の感情。

 さて。今日のお昼休憩はなかなか忙しかった。某業者から電話がかかってきていたから折り返し。どうでも良い他人との通話は私的領域でもとてもスムーズになった。応対の人の心情もなんとなく分かるし。あと、収入印紙17500円分を買う。収入印紙は国で、収入証紙は都道府県。普通に生活していればほとんど使わないのに、なんだか時代遅れ感。この印刷コストもキャッシュレスにした方が良いのでは。

さらに、いやこれは別の話。見知らぬややふくよかな三毛猫さんが居て、目が合うと目を細めてくれたからこれは触らせてくれるかもと思ったけどいつもの如く逃げてしまった。ツンデレかよと、僕に猫を遠ざける何かがあるのだろうなと。尾道では触らせてくれたのだけど。感触はなかったらないで良いと思っているからかも。何かの感触を捉えることは、自分の肉の器が浮き彫りになる訳で。触ることは触られること。

いっそ概念になりたいな。

 

まぁ良いとして。

 

認識と世界の更新の話。英語の科学記事を翻訳しているブログで、細胞は音を発しているとのこと。しかも可聴領域で。ガンになった細胞は調和が崩れた音になるとか。ただ、これが新たな認識かというと、そんなこともあるだろうなと。あらゆる存在は波長というか波。音楽は人の精神に影響を与えるし、演劇もリズムの中にある生活もリズムだし、人間だってバイオリズム。ついでに文体だってリズムだし。

自分にとって良き波に身を置くことが当人にとって心地良くなるのは当たり前。さすがにまだ自分の細胞の音は聞こえないけど、そういえば。文学フリマで京都に向かう京阪電車の中で、一瞬海に向かっている気分になっていた。何故かというと、僕の想い人との関係性の心象リズムが夜の海だから。あれ、なんで海に向かっている気分になっているのだとくずは辺りでびっくりしていた。寄せては返すだと、やや寄せすぎだけれど。

要は、波長はあらゆるところに在って細胞も含まれるというだけ。

 

影響範囲で捉えた現実という括りを考えてみたけど、細胞は誰かにとって現実だろうか。ついでにホルモンとか遺伝子とか。ひいては腸内細菌。明らかに影響を及ぼすはずだけどおそらく含まれていない。では自分が認知できるものが現実である。とするなら客観は意味を持たないし。ここでいう客観は、自分が認知できるものは相手も認知できるものだ、みたいな合わせ鏡のこと。僕は影響範囲で考えたらどんなものも影響しうるとしている。例えば自分の価値観では人を殺さないって断言できたとしても、これはあくまで今の環境だから言えるわけで、戦争になって兵役で仕事として相手を殺してくださいってなったらたぶんできるとは想像できる。のほほんとしたところでは、これは反倫理的だけど、相手を殺さなければ、自分を含めた大事な人が死ぬってなったら、どちらかは選ばないといけない訳で。

 

こういう文脈では想像とは備えよね。僕は完全1人だったら、たぶん誰かを殺す程攻撃的にはならないと思われる。ということで、環境を前提とした価値観という名の現実感って、環境が変わればやすやすと変化して、変化した後はもはや変化前はないもとされる。

 

さておき。

ベルグソンさんの本読み終えた。2回目かな。運動図式ってなんぞやと思っていたけど、そういう明確な文言はなかった。自分の主張書いているの最後の原稿用紙1枚分くらいではなかろうか。でも、共感はできる。要は人の感覚は1回しかないということ、厳密には回数の話でもなくて、瞬間でも適切ではなくて。時間はここでは出てこない。感じたまさにここっていう空間とも違う。感じたと感じたときに感じられるものでしかないという意味。何か他の事象に引き直せるものではない。

自分が起こした過去の行動についてこういう理由があるとかああいう感情に基づいてとか、自分の未来についてこういう選択肢があってとかあれこれ思考することでは自分には辿りつけない。

いま自分が何を行動する、感得することであって、この「いま」は再現することができない。たぶん表現できる言葉がないから「いま」と書いているけど、自分のままの自分とかのほうが適切なのかも。

僕が冒頭に自分の過去が映画のようなものだと評したのはここに繋がっている。過去のその自分には戻れないし、感情という大雑把な言葉で括れば1つにはなるけど、厳密にいえば、あの時の自分の感情と、今それを振り返って再現した感情は全然違う、今のものでしかないという意味。

カントさんの純粋理性批判もまた読み返すけど、おそらくカントさんの人格の捉え方は静的で、ベルグソンさんは動的なのだろうと想像している。これを発展させた黒猫さんの美的図式もこの文脈で読み返そう。

 

世界は知らないことで溢れている。

 

読み終えたと言えば。

イチゴアイスのような女の子への恋文(独訳)を読み終えてしまった。この本もきっと定期的に読み返すだろうなと思う。文体の面白さとは別に、想い人との現実的関係性の証拠として。

 

こういった、関係がいつ終わるか分からないのは主に不安として想像が多いように観測するのだけど、僕のこれは、関係が終わるのは当たり前として、なんでこの嬉しさが終わらないのだろうという今の座りが心地良すぎてしっくりこないというという感覚。

 

まぁ確かに、何の現実的メリットもないのに僕の日記を何回も読み返す人が居れば、お。何故だろうってその人格に対して興味は湧くな。僕の生身じゃなくて文体にだけ興味があればなおさら。

 

やれやれ。

 

では。皆さんが現実を楽しく過ごせますように。

 

禁忌

 

 

 

 お弁当食べながらポスターを眺めていると、長居公園の梅が見頃らしい。あれ。では、やはり帰り道のあの花は梅で良かったのか。認識は現実を変える。客観的にはずっと梅なことはたしかだけど、主観的世界においてこの客観はどれくらいの意味があるのか。というか本当の客観的な世界は存在しない。この梅だって、種類も品種もあるだろうし、DNAとか樹齢とか、何処までの情報があれば客観になるのだろう。「梅」とか「犬」とか「民主主義」とか、その固有名詞と結びつく外界への認識があれば客観だと言うのなら、そんなもの客観らしさの皮を被せた主観でしかない。だから、認識は世界を変えると僕は言う。

 だからとて、主観が想う客観は捨ててもいけない。別に生きていけないことはないけど、ある世界圏の枠内はそういう主観的客観の共通項である訳で、社会的生存はなかなか大変。ただ、これだけ。客観は自分以外の誰かも含めた世界の認識。いったい何の話だ。

 

 楽しさと切なさと面白さが混在する生活。客観を排することができたからかなという気もしないでもない。いちいち楽しんでいる。例えば、自分の状態が悪いのも、それはそれで希少だし、自分のバイオリズムを俯瞰している。こういう意味での客観もありそうだけど、こんなの言葉遊びで客観的主観なだけ。そうこうしてやっと僕は僕で在って良かったなと思えてきたから、意味は皆無ではない。

 

そういえば、主観と客観の分類は生活と仕事の分類にも繋がっているのかなと、想い人の日記を読んで考えた。なんだか前劇評みたいになりそう。まださっぱり知らないから、認識が更新されればまだまだ書くことはある。

生活と仕事を峻別するという分類法はとても分かりやすい。私的世界と公的世界は全然違うという認識。さっぱりしている。法学から概念を持ってくると、商人ないし法人の下で仕事をするのは雇用契約で労働法の領域で、商人と利益のために活動するのは商法の領域だし、企業になると、利益を株主に分配することで労働者は関係ない。おそらく個人の仕事だと、労働の概念が一番近いのかなと思うけど、どういう仕事が想定されているかはまだ知らない。

仮に労働として、労働契約の定義は、雇用主と労働者の合意なのだけど、その合意の中での中核は雇用主に従って動く、というところにある。その対価として金銭が支払われるという。だから、任意と義務という分け方ができるのかなと。

 ただ、個人的に思うのは、生活の中にも仕事的要素はあるし、仕事の中にも生活的要素があるのではないかというところ。例えば、この前想い人が僕に満面の嬉しさを投げてくれたのは、想い人の中の公的時間の中で嬉しいのか、私的も混同されているのかは分からない。いつか飲みに行きましょうって言ってくれたからアレだけど。まぁここは公的な領域ではあっても仕事ではなかったかもしれない。

 仕事って、ワークだっけ。ワークって多分、資本主義の起こりの工場の機械が開発される前のただ機械的に動く労働力な気がする。日本で言えば八幡製鉄所みたいな。こういう極論で考えると分けるのも分かるし、おそらく素朴に分けられる人は、こういうイメージなのだろうなとも。でも、生活に機械的側面がないとかというとそうでもないような。習慣はまさに生活の中で機械的に動いて人格をショートカットする機械的な自分で在る訳で。

 だから、僕は仕事と生活で体を分けるということには違和感がある。体は不可分だし仕事で得た体の動きは私生活にも反映されるし、私生活の動きと仕事の動きをスイッチ1つで完全に切り替えるようなことは人間には無理だと思う。不完全なら切り替えることはできるけど、この切り替えたつもりが私的なストレスになって、世界自体が崩壊する。愚痴を言えるくらいだと良いけど、愚痴も言えなくなったらその人の内的世界はぼろぼろ。

 自由と不自由で考えても、生活と仕事には同じくらい不満があるのではないかと思うけどどうだろう。不満があることが生活と仕事を包括した人生だと言うなら分からんでもないけど。

 演劇がどこで仕事括るって表現してくれるのかがとても楽しみ。真空パックは閉塞感の表現なのかなぁと想像しているけど、思った通りでももちろん構わん。監督、演出家?の人のファンでもあるから。朗らかなのは良いことだ。

 

 

 さて。僕の分け方。僕は仕事と生活は特に分けていない。社会的時間制限の中でどれだけ活動できるかという意味では特に分ける意味を感じない。むしろ分けるべきは肉体と精神の方。影響範囲で言えば、仕事と生活と、自分の体と人格は似たようなものだけど、精神は社会的物理的時間の拘束から離れられる。

 拘束の意味は誰かいっぱいから習得した認識という意味。僕はこの自由を肉体的世界には置いていないというだけ。肉体的世界はちゃんと物理的に場所を取れるから、自分の存在は良きにしろ悪きにしろあることは確か。肉体的に付随した観念もそう。僕はもう僕の肉体がどういう風に捉えられるかは知っているし、知られたらもうあまり精神生活は動かないだろうなとも知っている。

 この文章を書いている人格が僕の本当なのかというとそうでもない。これは冒頭に戻ってくれたら分かると思うけど。

 

 最後、とある作家さんが自分の文章は読み返さないと言っていた。何故なら、忘れても自分が考えたことは知っているから。この捉え方だと、世界は考えている領域では既知だよなと。物理的現象がそのどれかとかどれでもないとは別に。

 認識でたやすく精神は一喜一憂するし、自分が自分で在る根拠なんて認識できなくても自分で在れるし、体の影響も受けまくるし、そもそも自分なんて本当にあるのだろうか。

 という思考と関係なく現実は流れていく。とすれば、何が自分にとって楽しいかを追及すればいいのではと非現実的なことを思っているけど、たぶん結構正解だと思う。

 

 では、皆さんが楽しく人生を過ごせますように。 

 

限界

 

 

帰り道、カラスの森の手前の家に咲く梅みたいな花は日に日に鮮やかになっている。いつも帰る頃はだいぶ暗いから厳密に言えば見えるのは形だけで、色は脳内補正なのだけど。宇治植物園を通り過ぎて考えると、梅じゃなくて冬桜なのかもしれない。カラスの森も正確に言えばカラスの森だったもの。今やどんどんと、いや、だんだんと住宅地らしさが増している。そのうち窓から明かりも漏れてくるのだろうなぁ。

今日の珍しい人は、その時間の光量なのに歩きながら本を読んでいる人。どれだけ面白い本なのかと思うと興味津々だけど、残念ながらカバーがかかっていた。そういえば、現実時間では一昨日になるのか。文学フリマの帰りの電車で本を読んでいたのだけど、目を上げると、とても面白そうな本を読んでいる人がいた。百人一首はなぜあの和歌が選ばれたのかという本。人が読んでいる本ってとても気になる。参考書でもなんでも本の形、いや紙媒体ならなんでも良い。世の人はブックカバーをかけずに本を読んでくれたらいいのに。

どこの図書館由来の本なのかという情報もとても良い。生活リズムであまり借りないけど、図書館の匂いはとても良い。古本以上に使い込まれた本達。嗅覚も外界の摂取だけど、あまり生生しくないのは、生々しさの前準備みたいな感覚器官だからかも。美味しそう、まずそう、をまず切り分ける。

さて、面白い人生なのは相変わらずだけど、あまり眠れなかったし、PCはエラーで再起動になるし、なんとなく変な感じ。凶兆なのかなぁとか思ってみたりして。あまり楽しそうに表現しすぎるのも良くないのかなぁとか。ほんとのところでは、他人にどうやってお裾分けできるのかを考えるくらいに満腹なのだけど。

 どんな言葉も呪詛性を帯びるのかなというのは、やはり母親からの言葉に感じる。法律学の本が他と何か違うなと思ったら、母親との通話で、彼女が勉強って括ったからだろうなぁと。加齢の筋肉痛みたいに時差で響く呪詛。無意識に作用してくるとはなかなか根が深い。勉強ではどこにも行けないという性質をやっとこさ調整しているところで、人の心に重しを載せる。まぁ理由なんて後付けだから、なんでも良い。結論としては僕の人生においてあまり話してはいけない人はいけない人なのだろうなというだけ。血の繋がりとか、僕にいくら投資したかとか、全く関係ない。これで僕が他人にも義務感を強いるようであればそれはフェアじゃないけど、義務感とか惰性の関係全部断捨離した訳で。ここを改善するより自分が楽しいところを突き詰めた方が有意義。これを薄情とするのかどうなのかは知らないけど、どんどん良い人ではなくなっているなぁ。

 こんなの肉体に付随した枷みたいなものでしかない。体質の遺伝はともかく、気質の遺伝は自我が生まれるときに一番近かった人間くらいに意味しかないような。知らんけど。

 

 口角上げよう(目線を下げて)。

 

 さて。本の話。生物学の一般書はあと1日か2日で読み終わる。アルコールが脳を麻痺させるみたいな話もあった。脳を麻痺させる原因の1つではあるかもしれないけど、アルコールがストレスからの逃避に使われるためであって、根っこはストレスにあるような。単に飲みたいとして飲んでいる限り、あまり関係ない気がする。要は居場所をアルコールに求めるかどうか。もう一回くらい読み返そうかと思ったけど、この本は多分無知の塔からだるま落とし。

 ストレスが体の痛みに繋がるという本ももう外れたのだけど、人の根っこの憤怒は世界というより、環境という対人にありそうなという印象。安定と言う不自由に対する無意識の反逆。どういう人でありたいかというもどういう人に見られたいか、現状どういう人として見られているかというミラーハウスみたいなもの。

 生物学の系譜は最新免疫学に繋がるのだけど、冒頭からデカルトさんが出てきて面白った。医学の一般向け最先端の本がもはや古典になっているだろう哲学から始まるところ。哲学が考えた、人の精神は何処にあるのかがやっと解明されてきた、みたいに。自分の精神は個人にとっては自明に思えるけど、その精神は脳の認知機能に依っていて、脳の認知が免疫系の活動に影響を受けているとのこと。まだ冒頭辺りだからここまで。

 でも、免疫学問答から見ると、免疫のためには、笑うことで副交感神経を活発にして交感神経優位の自分を変えることが必要だという。とすれば、楽しいと思えない人なんてフェードアウトすれば良いし、この人という重しの方がアルコールよりよほど脳を麻痺させると思われる。麻痺しつつ麻痺されつつなら知ったことではないけど。まぁこの枠から出るのはとても大変。人は安定が好きだし。

 安定の拠り所とされるのもまぁ良いかなと思っていたけど、僕の最新知見では安定感は自他を縛るところもあるから、あまり馴染まないだろうなと。相手も自分も縛らずに交換できる関係なんてある訳がないのだけど、そういう非現実な関係がたまたまできてしまった。

 

 水滸伝はなかなかやりおる。いつも1は章ずつ読んでいるのに、面白くて2章僕に読ませた。想い人の本も、時間制限で考えれば明日の僕が読んでも良いのに、今日ひとまとめで読み通さなねばと思わせる。無意識の媚びなのかとも思わなくもないけど、この辺りは人格として不可分。なんだか自分の昔を思い出させる章だった。僕も小学校低学年くらいに自分でくるくる目を回す遊びをしていて、転倒して玄関的な石の角に頭をぶつけたことがあって、ここで正常が欠けたのかもなぁとか。

 

 なんだか楽しさ満載であるゆえに、これのリミットはいつなのだろうって思う。僕と想い人が世にも希少な嬉しさの交換ができているのは、おそらくとてつもないバランスの上でしか成り立たないもの。別に希少ではないという説も出てきそうだけど。

 

 いつ嫌いになられるかではなくて、いつ好きと言えなくなるのか。僕は人に好きという言葉を投げるとき、交換を載せていない。交換の中身は、自分が好きという単語を遣うことを思えばすぐわかる。自分にとって良い物。僕がこの言葉を人に遣うときは、なんて。

 

おしまい。

 

皆さんがそれぞれの個人的観念を大事にできますように。

 

プリズム

 

 

帰り際のスーパーでレジの前の動線を考えて並んでいる人を見かけた。とても珍しい。店舗が狭いから、レジに並ぶ客と棚が密集していて人が続けて並ぶと1つのルートが通れなくなる。しかし、その人の後ろの人は何事もなかったようにそのスペースを埋める。埋める。埋める。動線を開けている間に誰かが割り込むこともないし、礼儀正しく並んでいるのに。他の人には何が見えているのだろう。本気で世界の違いを感じる。

まぁこの店舗自体も立地とフランチャイズで持っているようなところ。レジは3台あって、どう考えても僕が行ったタイミングはピークなのに2台しか稼働していない。下手したら1台の時もある。補充の店員も見当たらない。新人の良く動く若い娘達か逃げそびれた年配の方が回しているイメージ。まぁそりゃしんどい時は働きたくないよなと思うし、経営者の手腕みたいなところもあるだろうなと。どうせ客は来るだろうだったらなんか危うい気がするなぁ。まぁなくなったら困るけど、困るだけ。

 

さておき。個人ブログはWordpressを考えている。レンタルサーバーで月額制だから検討中。文字の大きさを変えたり画像を挿入したりして視覚に訴えることは特に考えていなくて、ただ文章が読みやすく書けたら良いから、ややオーバースペックな気もするけど、色々種類ができるなら、酔いどれブログを基にしてある1つの対象についての文章置き場を作るのも良いかなぁとか。劇評コーナーとか、読書感想文とか、学問考察とか。まぁ誰かができることってだいたい自分もできることだから、色々試す1年かなぁ。芸術とか人格の表現物はできたとしても違うから、やや違うけど、誰かが使用できる技術とか知識は人であれば習得までにどれだけかかるのかという違いしかないような。

思い出すのが、何年か前、ある会社の面接で色々習得したいのですと言ったら、今さらそんなこと言ってないで、社会的生活を営むために自分に何ができるのか絞らないといけないのではないかと、重役っぽいおじさんが言っていた。なんとなくそれっぽいけど、終身雇用制度はもうないし、これを鵜呑みにしていたら、劇評もきっと書かなかったろうし、自分を楽しむことができていない。ついでにこんなに分散的な読書生活もなかったろう。閉じる方向の人の話なんて聞かなくて良いと思う。とか言っているから母親は僕のことを近所の人に評すのに息子はまだふらふらしていてとか言われる訳だけど。知ったことではないけれど。

 僕は不安定でも自由を選びたい。ちゃくちゃくと積みあがっているし。飯のタネになるかどうかは知らないけど、人生を楽しむタネにはなる。

 

 楽しい話。昨日動揺しながらもちゃっかりオリジナルステッカーを購入していた。全然売れていないって言っていたけど、ということは希少価値。ただ、僕は収集癖も所有癖もないから、物は使ってこそだと思う人なので貼る場所を検討してすぐ貼った。やはり見える場所が良いし言葉のシンボルとしてノートPCの指で動かすマウス的なところ(文章打つとき反応するのが鬱陶しいから使っていないけど)のすぐ右。白に虹色が映えるし、目線を下げると口角が上がる効果がある。ふふ。ありがとうございます。

 

 そういえば、肝心の想い人の本について書いてなかった。とても美味しい。ついでに時々本人の像が浮かんで来てかんみ(甘みじゃないからあえてひらがな)が増す。昨日も書いていた素材の話でいうと、自作の本というのは、製本は業者に頼むにせよ、他は全て著者の意図が反映されている訳で。まず、紙の手触りがとても気持ち良い。おそらく自分で触って厳選したのだろうなと。本の紙の手触りとか検証した人あんまり居ないだろうけど、なんだか普通の本の紙よりしっとりしているのです。良く分からない質感。

 あと、ちらちら何周かしてみたところだと、他の人は普通の文庫本みたいに製本していたのだけど、これはとても薄い。とてもこじんまり。予算の関係なのかとも思ったけど、中身と併せるとこれはあえて選んだのではないか。他には表紙の色味にもきっと意図がある。パステルの青が一冊目で二冊目が赤、次は黄色かなぁとか想像させる感じ。

 ちゃんと中身の話もしておこう。文字とページの余白とかフォントも好き。文体と良く馴染んでいる。なんだか絶賛しているけど、これは別に想い人だからということではなくて、因果関係としては逆。文体に惚れたから人格にも惚れた。だから、文体の見え方は好意に左右されない。

 あなたのシルエット。1人の少女が綺麗な少女に同化してなんだかんだ現実的な幸せを得る話。SNSで承認欲求を得るために加工した画像を上げてなんやかんやだけど、まず思ったのが登場人物の像が見えてこない。抽象化されているというか輪郭しかないというか。これは表現力不足という訳ではなく、ちゃんと像がはっきりしている人物も居る。主人公と結婚することになった不細工な男性。全ての女の子と女の子だった人のための本だからだろうなと。女という抽象と男という具体の対比的表現。

 あと、ひらがなと漢字。冒頭はとてもひらがなが多いのだけど、だんだんと漢字の量が増えていく。時系列の表現としてはそれほど珍しくはないのだろうけど、それを越えて筆者は同じ単語のひらがなと漢字に形を越えた別の意味を持たせているような。

 言葉で接した経験則で言うと、とても注意深く言葉を遣う人。発話だとまた印象が違ったけども。良い意味で。

 

 という読書感想文というか本のグルメレポート。劇評もグルメレポートみたいに書いている節があるな。どう美味しかったか、から作者がどういう調理法だったのか、材料は何だったのかみたいな。

 そうして、答え合わせもできなくもない。聞いたら答えてくれるかどうかはともかくとしてとりあえず聞くことだけはできる。でも、別に僕の考察が作者の思惑と一致することに大して意味を置いていない。むしろこういう考察ができること自体が僕にとって面白い対象だということ。演劇もそんな感じ。こんな利己的な文章を面白いと思ってくれる人が存在するのは、不思議な気持ちになる。

 ここを突き詰めていくというのが1つの人生の筋。

 

 なんだかもうのろけの続きだけど、アランさんの芸術の体系で、人の顔とは鏡だっていう表現があって。これは僕も考えていた。あらゆる意味で人の顔は鏡面構造があるなと。例えば、個人の顔つきってその人が世界をどう捉えているのかの鏡だとか。で、顔つきがどういう風にできるかって、ほぼ自分の感情をどう扱うかに等しい。感情自体は人であまり大差ないけど、感情を顔に顕すかどうかある程度操作できる訳で。全てを反射的に顔に出してたら、その人の中で一番強い感情が顔に刻印される訳で。

 それとは別に、人同士の鏡面作用もある。自分が相手のことをどういう表情で見ているのかというのは、相手の表情で見えるというような感じ。僕は結構自分は鏡的だなぁと思っていた節があるのだけど、通常は鏡を見る感じなのだろうな。鏡だからどちらが先か決めるのは不毛だけど敵が多く見えるのは、自分が相手を敵対視したのが先かもしれない。人の無意識は自分で思っているより敏感だから、なんとなく嫌な人とか、なんとなく嫌だと思われている人とかはきっと顔で気付かれている。母親は表面上平成で振る舞っているけど敵ばっかりだって言っていたけど、そんな浅はかな繕いは鏡張りである。

 

 というところで、本当にこんな人居て良いのかなというのろけ。僕に満面の嬉しさの表情を向けてくれる。鏡的に考えると僕が人にこんなに嬉しさを与えられる人なのか、ほえ、とほうけてしまう感じ。たぶん僕の表情も緩んでいたはず。いや、てんぱってひきつっていたかも。その後にやにやする顔を収めるのが大変だった。今でも。

 

 どこの思春期のやり直しなのかという感じだけど、経験則は踏まえてだから全然違う。焦がれるより穏やかな気持ちの方が勝ってしまう。恋愛感情と限りなく近いけど、全く違うオリジナルの気持ち。どう違うかというと、たぶん、自分に利があるから生まれた好意ではないこと。表現力不足。

 

 なんかもう、僕が定期的に送る恋文を読んだ想い人があの表情を浮かべてくれている

のだろうなぁと想像すると、とても嬉しいだけ。ちゃんと照れてくれていたし。それ以上に僕が照れていたけど、照れさせてくれる存在も希少価値。

 

 最後に少し引き締めて。

 アプリオリとアプステオリのこと。先験性と後験性。たぶん違うのだけどと前置きをして。アプリオリな直感って、僕の定義だと、経験を基にした経験則に基づかない観念だと思っている。例えば、本当の三角形なんて存在しなくて観念的な存在あるっていう観念は先験的だとされているけど、これって幾何学の経験がないと無理で。

 美的感覚もきっとそう。経験が少なくて済むというのが天才の定義かなとか。だから凡人は経験を積まないといけない。ただ、経験に付着してくる経験則は違う。正しいっぽい蓄積は感覚にとっては不純物。

 

 これで現行用紙9枚弱か。読書感想文5枚ですら夏休みの40日くらいかかったことを思うと、想えば遠くまできたものだ。

 

では、良い夢を!

 

 

 

 

 

 

身体の不自由性

 まるで夢のような1日。いや、現実感を基準とするなら、まるで現実のような1日。あれ、ただの人生に1日しかない1日って、毎日では。

 

 京阪ともだいぶ仲良しになった。月2回くらい会っていたらもう親友以上だろう。浮ついた気持ちを丸善で落ち着かせた時点で本日の着信は類型5回になっていた。丸善の雰囲気はシックである。そういえば名古屋の丸善も。結局神経免疫学の一般向け洋書と要件事実入門を購入。本日は大漁なり。

 さて、メンヘラ彼女のような着信回数だけど、そんな存在は居ない。母親である。ラインでは時間が空いたらと殊勝なメッセージと裏腹に。血は争えない。ただ僕の場合は逆転している。しゃーなしでかけ直すと、心配とか怒りとかではなく、単に息子に愚痴とか自分の正当性とか力仕事をする機会を逸したことが不満だったらしい。それを取り返すように1時間弱鴨川を眺めながら話を聞いていた。途中、鴨川にスマホを投げてしまいたい衝動に駆られたけれど、今日の僕の心の広さは宇宙規模の絶賛無敵状態だから、こうやって他人に承認を求める精神はとても健全だなぁと思える。

連絡不精をちくちく不文で攻撃しているのは見えるけど全然効かない。他人事である。刺激によって世界が鮮明になる在り方は、外界が鮮やかに見えることと自分の輪郭がはっきりすることがあって、今日は後者。

 話の流れで、あんた恋人は居ないのかと聞かれて別れたと答えた。したり顔で仕事の方針が立っていないから難しいよなぁと納得していた。いや、元恋人さんとはそんな俗っぽい理由で離れたのではないのだけど、と思ったけどいちいち説明することもないなと。他人の人生の理由なんて当人が納得できればそれで良いのだから。自分が一番大事なのである。

 

 

時は遡及して。京都の距離感は文庫本が1冊往復で読み切れるからとても好ましい。本日は美学をモチーフにした黒猫シリーズの遡及する塔の話。遡及する塔とは、現代物理学ではいつ崩壊しても分からない、上向きな建築が塔であるはずが、途中から頭を垂れた塔。何日か前から読み返せ―とアピールしてきていたから、なんだろうと思ったら今日の為の本だった模様。物と肉体と精神について。身づくろいをして本を買うために本を読みながら移動する。

 文学フリマとはとても官能的な場だ。想い人が参加していたということとは無関係に。だって、僕にとって本を読むというのは食べることにほぼ等しいから。作者が1つの机を隔てて実際居るということは、私の人格を食べてね、貴方の人格を食べますよという比喩としてのまぐわいに見える。場として落ち着かない。

 人が共食いを禁忌としているのは、生生しさとか倫理観が関係しているのかもしれないけど、摂食行為が外界を取り込む素朴な感覚だとしても、他の感覚器官が取り込む行為も同じようなものだと思う。精神的人格にとっての食糧は五感全部だし。僕にとって文章の取り込みは自分を変化させるごはんだから、食べ物よりもかえって生生しい。自分の観念と作者の観念の観念的まぐわいみたいな。人が世界から何を読み取るかは物理的五感というより、物理的五感からの情報を束ねた精神に依存していると思われる。

 ともあれ、文学フリマでは既に目的は決まっていたので、他の何かを買うという気はおこらなかった。メインディッシュがあるし食べられるのを分かっていて、他に美味しいもの在るかなぁと目移りはしない訳で。

邂逅についての言語的スケッチはとても難しい。五感が正常に機能していなかったし。普通の言葉で表現するならば、緊張でテンパっていたということ。なので後回し。というかこの言語化は直接送った方が良いのか、いやこれも恥ずかしい。保留。

会話の断片で、劇評が演出家から好評だったとのこと。ティラノサウルスの人と呼ばれているらしい。次の劇評も書いてくれないかなぁとか。これは僕が初めて演劇を観た時の夜に書いた日記のタイトルで、二回目に劇評の公募のサンプル文章でコピペしたはず。どっちの文章が引っかかったのかを聞くどころではなかった。どちらも何を書いたかはあんまり覚えてないけど、イメージとしては鮮明だからここから逆算ができる。写真に残さなくても、心にはシャッターがあるから焼き付けられるイメージが残る。

最初の方は、割と断片的な焼き付けの単なるスケッチだったような。あくまで日記だし。生まれ落ちることが当たりだとか外れとか、こちこち口で鳴らす音がメトロームを思わせるとか、ワイヤに釣られている回転速度も計算されているのだろうなぁとか。もう二年前になるのかもしれないけど、僕の中のイメージは鮮明。二回目は報酬があったから素面できっちり分かり易くまとめた気がする。粘着性のある液体とミニチュアの舞台と人の孤立感みたいな。僕の言語あんまり一般的じゃないから翻訳するのが大変だったような。

どちらにせよ、何が良かったのか分からないけど、ここで今日の読み返し黒猫さんが出てくる。黒猫さんは芸術を素材とか観念で分解して推論するのだけど、僕も外界を捉えた素朴な直感とは別に、その外界の素材はなんだろうと思考する癖があるなと。発端は直感(直接感得された外界)だから、直感の為には自分を拡張する必要があるし、そこから考察する素材については自分はあまり関係ない。

観念と言えば、カントさんの先験性。アプリオリともいう。純粋理性批判はあと何回か読み直すことになるだろうけど、この先験性って、自分の経験側とは離れているのは確かだけけど、直感も経験則を前提としているわけで、要は、経験から抽出された自分ってことなのではと思わなくもない。

最後に後回ししていたもの。色々と想像していたものは文学フリマという場で全ておじゃんになった。これだけ近かったら隠し通せるはずがないから、もう一言目にばらしてしまおうと。試食してみて美味しそうだったら買うのが通常形態だから、試食する前に一式下さいって言えば分かるかなと。そうしたら、一回目の演劇のイメージが焼き付いていたらしく、その前にバレ気味だった模様。確かにそういえば服装同じだったと思い至った。今日も含めてだけど、物として想い人は焼き付けられない。逆算して一回目の受付に居た人だと記憶を掘り返しても、そこだけ真っ白です。

やはりここから先は本人へになるか。

 

では、みなさん、自分の現実感を大切にできますように。

 

 

 

 

 

自分の楽しみ方

 洗濯機を二度回して、スーツをクリーニングに出して、何時間か情報を整理して、わさび菜と豚肉の炒め者等を作った。本日の体の動きはこんな感じ。あまり楽しいという感覚が出てこないのは、完全に主客が一致しているからかなとも思う。あらゆる言語化された感覚とか感情は、俯瞰があるから言葉にできる。誰にも説明できない、しようとしない感情でも、手に取るためには言葉が必要。思考とか感覚もそう。ただ、人は言葉にできると自分が伝わった気がするし分かった気がする。楽しむとはなんぞや。

 ところで、ホームページでTabキーを使って移動するとどの順番で項目が配置されているかとかが分かってプログラムがうっすら見える気がする。Webの中でどういう風にデザインするのか。日記も個人ページで作ってみようかという試行観念。なんでも試そうとする精神はあんまり他人からは吸収できない。いや、他人の範囲が狭かっただけなのかもしれない。貴方は不器用だからそんなことはできないという他人を評価する人なんて正味関係として要らないよなぁと。着々とショートカットキーとは友達になっている。方向音痴と位置情報に対する身体意識のずれは相関しているような気がする。手入れがいっぱい必要ということで言えば、僕は僕を愛すべき人物として評価しているのかもしれない。自分ともまぁまぁ仲良くなってきているのか。

 見たいものを見て接したい人に接して言語にも振り回されない。ただ自分に殉ずるだけ。進化と変化と進歩と退化。生物学的には発達も退化も進化の一種らしい。進化とは環境に適応する形態的変化。うしおととらでは、進化の反対は無変化だと言っていたけど(by勝)、環境が変わらない限り無変化は進化の対義語にはならない気がする。環境に合わなくなるような変化が進化の反対。まぁ進化は種全体が主語だから、種を残さないことが反対なのかも。反出生主義というらしい。

 個人レベルで言えばどこまでを変化として、どこまでを自分とするかのバランスでしかないけれど。自分が自分固有の領域だとしている部分って、かなり操作的に決まっている。環境と自意識からの捜査。でも、その決まっているものが自分を存在させている訳で。僕はもうこの辺りは恣意的に操作できそうだなと思いつつあるから、あえて自分が自分で在ることの証明は要らないかなという感じ。意識にとっては自分すらも対象でしかない。

 あれ、こんな話をしたかったのだっけ。こんな話か。自分の感情も自己観も結局はだいたい影響から積み重ねてきて創り出されたものでしかない。ベルグソンさんが言うように本当は人の感覚は一生変化し続けるしかないのだけど、そこを今というある程度の時間でまとめたのが暫定的自分だと思う。要は、今という時間性には個体差があるということ。だから、社会的でもなんでも良いけど、関係における時間は人の個人的時間とずれている。個人的時間も探らないと分からないことだから、分からずに一生過ごす人が大多数だと思うけど。

 自分はこういう人物だという自己評価ないし他己評価が本当の自分を殺している。殺したことで矯正できるのであれば生きる為にはしょうがないけど。毎日の祈りで、世界がぶくぶく満たされますようにとして見ているのだけど、自分の存在とか満足が比較に依っているいるなら、満遍なく満足とはいかないのだろうなと、外から目線。自分を変えること自体は今日から今からすぐできることだけど、誰かと比べてとなるとなかなか大変。比較で考える限り自分が固有になることは一生ないし。

 たぶん、そういう観念の人は、自分が自由ではないとの自己観に囚われている。でもここの自己観は、昨日の話で言っていたのと繋がっていて、誰とも繋がっていない自分個人の存在を認めることができるかという意味ではなかなかの修行ではある。仕事との共通項は、誰かに観測されていることで自分を保てること。

 僕が言う自由とは未来を未来の自分に投げること。明日の想い人との邂逅をシミュレートしているのだけどどうも不確定。名乗るルートと名乗らないルートを考えていて、あとそれぞれのルートで想い人に対してどんな言葉を贈るのだろうとか諸々。名乗ってくれたら嬉しいって言ってくれたのだから名乗れば良い、ということにはならない。何故かというと、別に僕は想い人の嬉しさの為に言動していないから。相手が嬉しいとしてくれることはありがたいけど、それに手放しで言動することは自分を殺す。

 なかなか細かいけど、この切り分けが必要なのが僕のポンコツ具合。ただ、とても楽しみであることは確かで絶対。そもそもこんなにめんどくさそうな奴に現実的に関わってもろくなことないのに。

 楽しみを言語化すると、自分が想い人にたいしてどう接するのだろうというシーンと、想い人は僕を現実的に認識したときどういった表情をするのだろうというところ。この未知数が自由だと思うのだけどどうだろう。未来を選択するという意味での自由は、自分が自分である限りほとんどない。せいぜい何を選択するとか誰を選択するかとか。

 あー緊張するなぁ。願わくば、僕の物理的肉体が想い人の生理的嫌悪感を催す枠から外れていること。この枠に入ったらどうしようもない。

この未定感が人生の醍醐味としている。明日は新しい自分を発見できることだろう。他の人は知らない。この、他の人は知らない断言できることが自己観の極致かとも思う。

 

 では、皆さんに僕の充足がおすそ分けできますように。

感情の中身

 珍しく帰りに電車に乗った。これは楽しようと思った訳ではなくて、金曜日のうちに色々やっておきたかったからなるべく早く帰るために。これはのちに覆されたけど。休みの日の間延びした時間と、仕事から帰った後の凝縮された時間ではどちらが重いかを比べると明らかに後者だから、むしろ休みの時間にあえてなげてしまえと。本当は日曜日完全フリーになるためにという備えだったのだけど、備えの必要はなくなった。これはのちほど。面白さは休息では得られないとアランさんも言っていた。

 少し遡って。最寄り駅の改札から出たすぐの所に売店がある。タバコを買ったのだけど、おばさんというかおばあさんに近い店員さんがお釣りを返してくれたとき、一瞬手が触れた。とても冷たかった。良かったなと思った。細かく言語化すると、もちろんこの店員さんが外気と近いところで働いていることに対してではない。この店員さんが暖かな職場で働けるような力なんぞない。ただ、僕が冷たいと感じたということは、店員さんに僕の熱が移動したということ。一瞬だけでもごく一部だけでも暖かくできたこと。この不文の一瞬の関係が良いなと。誰かにできることなんて限られている。

 仕事と言えば、今日通話応対していた年配の男性が最後に僕の名前を聞いてきて、貴方の対応が良かったって言っておきますねって言ってくれた。この人おそらく本当に言うだろうなと思いつつ、僕は僕が想う普通の応対をしただけ。相手がパソコンに疎いから、どういう風に目線を動かすかまで細かく説明しただけ。どういう原理か分からないけど、相手の画面と接続できるアプリケーションがあるから、どういう風に目線を動かしているかはカーソルの動きで把握できる。自分がそうさせたいという相手を操作する感覚がない。操作して欲しいという人のほうが多いけど、その中でも自分の正しさを信じている人もいるからなかなか難し楽し。

 職場でいうと、先生とまっさんの会話が一瞬聞こえてきて、先生がこういうのはわくわくするって言っていた。おそらく調査系の案件で、それをこなしたところで対価としての給料には全く反映しないだろうに。こういう交換の観念がない上司が居るから楽なのだろうなと思った。仕事に対して誰も使用せず勝手にわくわくしている上司ってなかなか奇特。といっても一番若い社員は転職するとかで、現代の会社もかなり大変だなぁと第三者目線で見ている。転職の自由は謳歌すべきだと思っているから、時代としてはとても良い。ただ仕事に関してなぁなぁのなれ合いが無くって来るという意味で言えば、能力を向上しようとしない人には厳しくなってくるだろうなぁとか。

 先生は、ぼそっと視力が衰えているからとか言っているから、自分の肉体の衰えが足かせになって居ると思っているのかぁとか観測している。でも衰えている人がわくわくという言語を使うかしら。

 という感じで、自分で言うのもなんだけど僕は人のことを割と興味津々で観察している。観察には関係は関係ないから。観察と自分にとってその具体的な個人がどうであるかっていう評価は別物。これが見えるということだけど、これを相手に言ったらそれはもう違うものになる。なんでかって、主体的な個人は観測者を求めていないから、貴方ってそうでしょうって言われて自己認識から外れたこと言われたそれは違うと反発が起こる。僕が観測するに、人は人を自分にとってどうであるかでしか見えないように見えるけどどうだろう。僕は相手から観測された僕のことも見ているし、特に否定はしないけど、外れても想うみたいな観念はなさげ。自分の認識から外れた人はきっと自分に無関係な世界になるのかも。他人の世界は分からないから、断定はしない。ただ、断定されたら断定しますよというだけ。

 という世界で生きていること自体がもはや非現実なのか。

 

そもそも、ちゃんと現実を生きていると自覚していると評している人達に聞いてみたい。貴方が現実としている基準は何ですかと。五感と観念の一致以外に何かあれば聞きたいところ。僕が思うに、現実も幸せと一緒で、自分がそう思えばそうとしか思えない。自分の物理的五感もたぶん大して気にしていないように見える。五感が感得した統合が普通の人格だけど、厳密にいえば五感が収集してきた初期の統合があればそれが人格だからその先の五感はどうでもいい。

 

想い人に恋文送る。

 

送った。

 

自己観念が不安定なのは別に良き。僕の世界は誰かの世界に存在するのが自分だった。相手の世界を害さないように、相手の観念の中の自分を壊さないように。これは関係性の中では安定だし、相手のことも安定的に決める観念。僕はポンコツだから自分の世界から離れた人なんて想えないし同情もできない。できるのは想像だけ。

 

もうそろそろ最後だけど、のろけでも書いておこうか。想い人と現実的に会う機会が明後日なのだけど、会った時名乗ってくれたら嬉しいとのこと。正味、何が嬉しいのかは分からない。ほんとに。この人の基準が全然不明。ただ思うのが。自分にとって良きという観念を相手まで広げていないこと。自分にとって嬉しいというだけで、僕を操作しようとはしない。

 

こういうところがとても好きだなぁって。人に対して汚点を述べないという観念があるかもしれないけど、ストレスだったら切っても良い訳で。あんまり物理的な関係はないけど。

 

要は、自分にとって有用か害かが現実的使用だとすれば、想い人が僕に対して投げてくれえる言葉とか非言語は明らかに非現実。

 

現実とは苦しいものだとする観念があるとすれば、僕の毎日は非現実。

 

では、皆さんがちゃんと満たされますように。他人を害さない形で。