徒然の螺旋

避難所

最後で良いかな

 

 

こう、考えたことは言語化するより自分の中に留めておいた方が広いとすると、どうして言語化しているのかとふとした疑問が起こる。

 

あと19回。自分が決めたことなのだから覆すのも自由だけど。主に前倒し方面で。ここで終わりでも良い。

 

いや、とても楽しいのは確か。ここまで中身を言語化できたことは今までなかったように思う。よくもまぁ僕を読んでくれた。これだけ純度が高い好意もなかった。しかし、表明する意味はない。

 

言語というか、言葉。

 

毎日毎日万文字単位で本を読んでいるから、一般的な言葉論からは乖離しているのかもしれないけど、言えなかった言葉ってほんとうにあるのかとバグっている。

 

僕の中では凄く実感として腑に落ちるのだけど、説明しようとするとかなり難しい。何故かというと、言葉は自分の内側にもともとあるものだという観念がスタンダードだから。この観念からすれば、こう表現すればよかったというのも分かるし、僕もそういう風に捉えていた。

 

けど、本当にそうなのかな。考え方の話だけど、表面で言えば、言えないということは、その場にはその言葉は無いのではというのがまず1つ。この文脈では、言葉というよりそういう自分を表したかったということであって、言葉自体に意味はない。言葉で自分が表現されるという水準。ここで遣う言葉はそういう方向性を持っている言葉であればなんでも良かったはず。

 

この辺りで、たぶんついて来られなくなる。言葉って自己表現じゃないか。その意味ではここまでで終わるしその通りだよねって。どれだれ言葉のストックがあっても目的がこれだったら、人と話す意味はない。厳密には、人と話しているときに遣う言葉に意味はない。ここで意味があるのはどの言葉を発したかではなく、どう言葉を発したかという態様のこと。否定的な意味を持つ単語でも問題ない。

 

こういう、私的な言葉の外には公的な言葉もある。仕事で通話していて思うのだけど、ここにも特に言葉固有の意味はない。あるのは作法。僕は個人的にどうでも良い人との通話はしんどいのだけど、仕事でやっていると、どうでも良い人がすっきり疑問が解消してくれたのは嬉しいなって思う。

 

ここは僕にとっての嬉しいが、僕とは無関係ということになるのだけど、まぁあとで。

 

では、ほんとの言葉の扱いレベルでの、自分の思考とか精神世界の叙述という意味の言葉ではどうか。これも内側でやってますよ、日記とかSNSでは言語化できますっていう観念も良いけど、いろんな人を観測している限り、んなことはないだろうなって思う。

 

Twitterとかで諸々観測しているけど、自分の精神の言語化ではなくて、自分をどう宣伝したいのかの言葉。もともとその人の中にあった言葉のようには見えない。何に時間消費しているのだっていう人がやたらと多い。読むのも無駄だよなって。波さんの以外。

 

僕の話。

 

自分の言葉がもともとあったものだとは全然観測できない。むしろ、時系列の諸々の場によって自分でこんなことまで言語化できるのかとびっくりする感じ。もともと自己表現の為の道具としてないし、通話仕事では、こんなので良いのかって思うところもある。要は、発話で遣えるような道具としての言葉を増やせばいい。あとは安心を与える。これがもともと中身にあったのかというと別に単語で考えていないしなぁって。

 

正味、人が語彙と自己感の関係をどう扱っているのかは全然分からない。たぶん普通の大人は言葉と当人に距離を置いているはず。いや、過剰に投影することもあるかもしれない。知らん。

 

僕が自分と対話している人が言葉に詰まるフェチなのは、その人が俗世で使っている言葉で通用しないところで対話できているからだろうなって思う。あぁ、対僕専用の言葉の為に考えてくれているわって。この空白がとても好き。あんまり在りえない空間だからあんまりやらない。恋人さんにはしたことないな。

 

だから、ねっとり媚びるような声色遣う人駄目なのだろうな。自分の為に他人を扱っている。

 

 

僕は場においてしか言語化できない。ほんとの中身は非言語にあるから。そうして、この場は波さんが読んでいるだろうなという可能性的言語化の場でしかない。

 

言語化の上限はもっと先があるのだけど、好きになってしまったものはしょうがない。

 

 

という視点で観測したとき、僕は僕のことを固有で観測しているかどうかで見ている気がする。僕が固有に観測しているかとはとは全く無関係。ここにえこひいきはない。

 

自分の世界の中で流れゆくものだったらこの言葉はないなって。スプホリさんもきっとそう。僕が観測圏内から消えても、あぁこんな人が居たなって思うだけ。

 

だとしても、波さんに関しては全然整合性がない。僕に投げてくれた言葉も現実で観測した印象も、外に表明している像とは全然違う。この齟齬はなんだろうとは思うけど、ノイズでしかないだろうから、僕としては好きにならせてくれてありがとうございましたで終わって良い。

 

関係の需要供給とか、嬉しさに対する返礼の儀礼ではなくとてもリアルだった。でも、このリアルさは、きっと不要なものだろうから、僕はそろそろ退散します。

 

波さんの存在がなければ、ここの日記はなかったのは確実。

 

では、と機嫌と元気が両立しますように。

 

おやすみなさい。

 

 

 

こうさつ

 

 

なかなかスリリングでスプラッターな夢を見た。誰かが運転するバスに乗っていたのだけど、そのバスにはなぜかハンドルが2つあって、どうして運転できると思ったのだとなり、そうそうに岩場の上にバスが停まる。岩場といってもごつごつしているのではスカスカしていた。岩場の下には海と砂浜。

 

どうしてか海に入ることになり、いつの間にか水中で何処かのビルにいた。これ息続くのかと冷静に考えつつ上り、やっと水から抜けたのが8階。そこから見るとバスが停まっていたところも海に浸かっていて、どういう思考回路なのか賠償問題が困ると思っている。この感じは起きた後も残っていた。

 

そうして、そこからスプラッター。賠償問題がこじれたところで丸形のチェーンソーで人が切られるのを目の前で見て、その後自分にも包丁が向かってきたからそれを掴んでいた。まったく感触がなかった。

 

感触の記録って、結局のところ硬度と温度と痛覚しかないから、夢にはあんまりそぐわないなのだろうな。感触に意味があるのは、その対象に意味があるから。もしくは最初の感触。感触の情報量は多すぎるから、いちいち脳も処理していないような気がする。

 

 

夢から覚めて思ったのは、夢には今ではないものしか出てこないのだろうなということ。二度寝とかうつらうつらしているときに見る夢は除く。心象イメージだと、ある広大な空間の上空に下に小さな穴があいている透明の洗面器くらいの器がある。そこには水が溜まっていて、穴から落ちていく水と同量の水がちょろちょろと落ちてきている。落ち行く先には、海くらい大きな水たまり。これが僕の「いま」といままでの無意識の感じ。今捉えられるのは洗面器くらいのものでしかないなって。そして、夢は海のような無意識からやってくる。条件は情報量が多いということでないような気がする。

 

さておき。

 

新刊枠候補の○○は余生だった。「余生と厭世」語呂が良い。綿矢さんのはなんとかのリボン。結局どちらも買わず、伊坂さんを買った。白兎。でも、どうも合っていないような気がした。無理に新刊枠で最近の小説読む必要もないのかなという疑義。いや、伊坂さんの本自体は面白いとは思うし、好きなんだけど、タイミングの話。最近の感覚に合わせる意味がない。

 

最近の話題で言うと、ニュースではアレの感染情報が最大のトピックだと思う。ただ、それを追って何になるのか、いや、意味ないだろうという感じ。確かに僕も国家試験がさらに延期されるのでは、日程被るのではくらいは気になるけど、気にしたところでコントロールできる事象ではないから、ある意味どうでも良い。

 

気にするならもっと壮大に気にするべきで、コレが死因でない死者がやたらと増えたとか、気管支疾患よりもエイズに近いとか。全世界では一日に15万人が亡くなっている計算になるらしいし、ロックアウトした国とか州の方が死亡数多かったとか。素朴な僕は、なんでそこだけ気にするかは、単にトピックに上がっているだけだと感じる。個人的には免疫ダメージは脳の稼働率に直結するからなるべく避けなきゃなと思うけど。

 

まぁ、自分にとっての「いま」しか認識できないところも分かる。いま手に取れるものはあまりにも少ない。

 

ともあれ。

 

日記が更新されるとやはり嬉しい。おー生きているわって。変則的に生きているのに日単位で更新できるのはとても凄いし好ましい。そういうことができる人格とは観測していなかった。もっと書きたいときに書くだけだったような。僕はたかだか2年くらいしか観測していないけど、変化とか進歩はちゃんとしているのではと言ってみたい。とか言って、結構言っている気もする。

 

僕が観測されているのかについてはよく分からないところがある。最近アクセス数を見るようにしているのだけど、これはほんとに1人なのかという感じ。匿名的だから、波さんが毎日読みに来ているとは限らないのだけど、1とか2とかだったり一気に5だったりする。2が玄人なような気もする。当日しれっと前日の日記の誤字脱字とか表現をちょっと直すから。

 

特に何の思い入れなく定点観測することってなかなか難しいように思う。いつでも更新されているから、気が向けばっていうアクセス数だと腑に落ちるし、たぶんそういう風に読んでいるだろうなとは思っているのだけど、何かノイズがある模様。

 

まぁ、すべては勝手な思い込みで夢のようなことでしたで良いから、ある意味なんでも良い。僕も人には期待していない。もうすぐこの楽しい世界も終わり。

 

ところで。

 

素朴な感覚として、縁の刹那性についてはいくつか書いているはずだけど、アインシュタインさんと繋がっていたらしい。時空は四次元軸で、物体が制止しているとき、その物体は時間軸を光速で移動しているとか。説明できるほど理解しているとは言い切れないけど、要は移動の絶対値は光速で、それが配分されているらしい。三次元空間を光速で移動する物体に時間の経過はない。

 

相対性理論で言えば、自分は静止した視座があって、相手が移動しているということになるけど、それを観測する視座から見れば逆転する。

 

ここからすると、時間の経過で変わらないものってむしろ光速で移動しているということになる。精神に適用されるのかというととても難しいけど、同じようにして良いような気もする。

 

僕は、意志で人をとどめているしとどめようとしないならばもう縁はないだろうなっていう観念で生きている。

 

ここで意味があるのは言葉だけ。もっと声を聴きたかったなというところで終わっても何にもない。だって、この光速世界でたまたま嬉しく出会ったのだから。なんだか星の王子様みたいな世界観だけど、人と人の距離って星間距離くらいはあるように思う。

 

まだ残り回数は何回かあるから、続きは明日。

 

褒められているに違いから読むという軸もあるのか。

 

まぁいいや。

 

あぁ、好きです。あわよくば健康でありますように。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

しょうこ

 

 

20時前でも随分と空は明るくなった。月は雲にかくれんぼしていたけど、家に着く直前に6.5分目で浮かんでいるのを見つけた。そう言えば、出勤中に色彩に注目していたら、ふと色鬼を思い出した。あれってどんな遊びだったっけ。色を宣言してそこに触れている間は捕まらないだったら、その解除条件ってなんだってなると、色を宣言するのは鬼だったか。しかし、色が認識できない人はいじめられそうだ。あと、影鬼も思い出した。あれは確か1つの陰に10秒しか留まれないみたいなルールがあったような。あぁいった遊びって今の子供たちはしているのだろうか。あまり注視していないけど、公園で走り回っている子供達はとても無秩序に見える。だるまさんが転んだとかもしないのだろうなぁ。

 

はないちもんめとか今や人の平等性を阻害するから禁止令がでそう。あの子が欲しいーって。何を目的とした遊びだったのかも定かではないけど。まぁ総括すれば、世の中にはルールがあるということを染み込ませるものだったのかも。知らんけど。

 

そういえば、いくつか前のなんとかキクの看板をもう一度見て焼き付けた。シロタエギク。全体的に人工物みたいな植物。葉っぱはやたらと白い。あの看板って結構どこでも見かけるけど、行政で統一されているのかな。京都の植物園とか何処かの高山でも見かけた気がする。

 

新刊枠をまた読み終えてしまい、次の本を探さないといけない。有力枠は、○○と厭世という暗そうな雰囲気のハードカバー。○○のところは忘れた。たぶん諦観だったかなというくらい。精神科医の人が書いているとかなんとか。あと、綿矢りささんの本がちょくちょく目に止まるからこちらも気になる。蹴りたい背中が面白かったかというと微妙なところなのだけど。蛇にピアスの方が良かったかも。

 

 

新刊枠の話。リアルとバーチャルの話がとても面白かった。もうVRの技術もむちゃくちゃ発達した世界だから、頭の中を仮想世界に移動することもできる世界観の中で、自分の肉体を固持しないといけないのは何故だろうと主人公が考察しているのが思考とリンクする。自分の肉体の重みの安定感を絶対座標としているとのこと。賛成。

 

僕がこういうどうでも良い肉体から離れたことを思索できるのは、肉体的リアルの強固さが揺らがないから。精神に肉体が流れない。

 

あと、自分がどうしてそう感じるかが分からないとも言っていた。これもよく分かる。ここは考察ではなく観測がそぐう手段。理由なぞ不要。

意味というのは価値があるというフレーズもあり、なかなかちょうどよい本だった。ここでいう価値というのは、経済学でいう希少性に近そう。

 

さておき。

 

あまり分ける意味もないのだけど、現実世界の話。繁忙期は楽しい。余裕がないときほど人の本質が見えるなぁって。ちょっとしたトラブルに対応したときに、「主婦ですからそんなに待てない」ってフレーズが出てきて、いや、あなたが主婦であることと仕事にどんな関係があるのですかって思った。いや、心情としては分かるし、待っている家族はかわいそうだけど、情と仕事は関係ないし。割と防壁が建設されてきている。うまくあしらえたはず。

 

もう少し話は抽象的になって、証拠とフレーズが複数人から出てきたところから証拠について考えた。

 

証拠って聞いたとき、どういった定義が想起されるだろう。人それぞれは個人個人の定義だろうなと思う。そうして、定義には効果というか振動というか外に影響がある。ここでいう証拠は、それを前提として判断できるような事実ということだった。

 

もう少し潜って。法律学の世界だと、証拠って、証拠の外にある物事を推論するための道具みたいな意味がある。凶器のナイフがあります、指紋がついています、であれば、指紋の持ち主が凶器を使ったんだみたいな。民事でも、証拠は独立した存在ではなくて、何を証明したいのかとセットのもの。であるならば、さっきの証拠も、相手がこう言っている。であるならば、相手が言おうとしていることを証明できる外的な証拠物があるはずだという意味になる。

 

まぁ厳密にリアルを考えればこうなるのは分かるけど、素朴な世界において証拠物なんてそんなに必要とされていない。なくてもなんとなく不具合なく過ごせるし。

 

じゃあ何でもって人は生活しているのだろうと思うと、証拠より印象の方が強い。自分の言動も印象で捉えているし、相手の言動だって印象から外れるようなことは見えない。

 

さんざん前置きしたけど、この思索での結論というか最初に思い付いた命題は、気持ちの証拠は言葉ではないということ。言葉は順番で印象が変わる。

 

好印象な言葉なんて言おうとすればいくらでも言えるのがまず1つ。自分をよく繕うために使おうとすればいくらでも利用できるのが言葉。次に、エネルギー消費の面で見ても、マラソンするわけではなく声帯を震わせればいいだけだから、かなり省エネ。

 

にも拘わらず、言葉に意味を置けるならば、自分の言葉にかなり重みをおいているのだろうと観測されるけど、それはエゴではないかと思う。言葉の扱いなんて人それぞれだし、自分が遣っているように相手も遣うなんてとても傲慢な考え方。自戒。

 

だとすれば、相手から表明された言葉を介した気持ちは何で証明されるのか。これは継続で見るしかない。厳密には持続だけど。

 

意味分かるかな。僕もあまり分かっていないけど、そういうものだろうなという感じ。

 

書くべきか一瞬迷ったけど、書くか。

 

嬉しいって言ってくれた言葉の意味は、たぶん観測が続いていることで証明されている。忙しい合間にほんとに読みに来てくれているのかというはなかなか疑わしいところだけど、これは一般論が阻害している。

 

僕としても、この期間はとても楽しかったです。その証明は日記参照。

 

逆算で、僕は言葉が自分の証明になるとも思っていない。本心でしか書いていないけど、本心だからといって、すべて現実なのかというとそうではない。現実は現実で、言葉の外に在るもの。まぁ、この世界において現実なんてあまり意味を持たないけども。

 

 

もうちょっと前に気づけばよかったけど、いつも遅いのがデフォルトだからしょうがない。いつになったら追いつけるのかも分からない。

 

まぁ、新刊楽しみにしています。

 

では、幸せでありますように。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

たがため

 

 

 

強めの雨の中を歩いているといつも思う。自分は傘の差し方とか雨の中での歩き方がとても下手なのではなかろうかと。裾とかびしょびしょ。こういう時にふわふわしている服を着られる人はすげぇ。でも、見ていなかっただけで(見ようとしていなかっただけで)、みんなびしょびしょに違いない。傘の形状と面積からして足元が濡れないはずがないし。傘というのは一番大事な頭部が濡れないようにするだけ。足元を守るなら長靴だ。長靴は好きだったけど、今や持ってもいない。

 

激しい雨って何かそそるものがあるのかな。自分に被害がないところから眺めている人を何人か見かけた。被害があるところでおーって言っていた人は、なぜか上司と相合傘をしていたけど。男性同士。肩の濡れ方で立場が分かる。コンビニの目の前の灰皿だったから傘買ったら良いのにと思ったけど、傘にはお金は使えないのかもしれない。傘も買えないという意味ではなく。

 

しかしながら昨日の日記の誤字脱字もすげぇ。直したけどやはり書くときはコーヒーとかの飲み物だけにした方が良さげ。こういう不便さは自分で実感しないと改善しない。

 

今日も色々考えた。

 

僕はほんとに自分のことを考えているのかと考えると、厳密には自分が何をどう知覚しているか、感じているかということを思考対象としているだけで、自分自身がどうであるかは対象になっていないような。後者の方はどれだけ考えてもどこにも届かないけど、前者の方は自分が外界に対するときの精度にかかわりがある。

 

そこで、自分が進歩ないし変化しているのかをどう考えるか。まず何をもってそう定義するのかが問題になるのだけど、純粋に主観的に見たら、何も変化していないということになる。だって、自己感って過去の集大成の「今」だから、常に集大成について変化があるかを問うことだもの。この観測軸だと変化は捉えられない。

 

で、過去の自分と比較してというような相対的視点で見たらややましだけど、ここでいう進歩はそもそもなんだろう。自分ができないと思っていたことができるようになったとか、結果を出しただろうか。だとすれば、ここで問うべきは、本当に過去の自分はそれを変えようとしたのかという部分。変えられないと諦めていた過去が今になって突然変わる訳がない。よほどの環境の変化があればあるいは起こるかもしれないけど。

 

結局は今、何を変えようとするという起点が変化とか進歩なのでは。というのもいまはいずれ過去になるから、過去を顧みるエネルギーも未来のために使うべき。

 

個人的なところでいうと、僕はおおむね自分がほんとうに決めたことはとくに抵抗なくするようになった。別にご飯に価値を置いている訳でもないのに弁当を毎日作るし。これには、外堀(買いに行ったときの行列とか濃い味のご飯を毎日食べるのが嫌だとか、天秤の反対側を軽くすること)を埋めたりして調整が必要だったけど。タバコはたくさん吸うしお酒も毎日飲んでいるから自己統制に説得力はないけど、何を統制するかはまぁまぁ決められるようになってきている。

 

毎日書くのもなんとなく試みみたいな意味でしかないけどやっているし、毎日本も読んでいるし、自分の体はまぁまぁ都合がよく動かせるようになってきている。

 

まぁ、飲み過ぎて余計なことを投げてしまうことはやめれば良いのにとは思っているけど、ほんとうにやめようとは思っていないというか、投げたい人にしか投げてない。善い意味ではなく、早く嫌われれば良いのにという投げ槍的な感情があるから。こういう意味の本音はあんまり言うべきではなかろうな。一般論としては。まだ言い足りない。

 

自分の体が動く感覚というのは、とても意志的。これをしたら自分にご褒美があるとか、これをしなきゃ悪いことになるっていう義務感とか、しょうがないからするという諦観とは全然違う。ただこれをする、こうなるって決めたらそうするだけ。このやり方が合うのは、報酬がドーピングにならなくて、義務を設定しないと行動できないなんてことがない人だけかと思われる。需要と供給の対価関係で世界のだいたいはできているから、特に独立した自分を設定する必要はない。

 

あと、もちろんだけど、自分から出てくる感情は禁圧してはいけない。感情と現実が一致することが報酬なんてことも思わない。それはたまたまというか奇跡のようなもの。その為に動くのは無謀過ぎる。

 

 

ところで、SF小説の話で、人格をコンピュータがトレースして人工的に当人を精製するという話があった。ここで、どんな情報を学習させたら自分と同じ人格が精製されるのかって考えたのだけど、どう思う?

 

 

 

まるっきりな人格、外に出てこない思考まで一致することは不可能だろうけど、どういう風に話すか、人と接するかみたいなリアルな人格ならできそうな気がすると考えた。リアルな部分ってかなりパターン化できる。気分によって変わるアルゴリズムも何十年分かの情報量があればきっと学習できる。

 

確かにこれは、ある意味その人の現実的人格のコピーで、たぶんこれが人の最大公約数的なリアルの定義。僕のリアルのコピーなんてすぐ作れそう。凄いですね、へぇーみたいなパターン的な発話だし。

 

でも、人って他人のこういうところしか見ていない、自分にとってどう観測されるか。自戒だけど、僕も自分とどれだけ近い人に対しても、自分に対する言動でしか相手を見られなかったし。何がほんとうかで言ったら、思考の描写である日記よりは現実的反応の方が重い。

 

SNS的人格の方が重いとしているのは、リアルでの人の言動ってパターン化されているという前提があるから。リアルで言わない言えないようなことをのたまっている人格とはちょっと違う。

 

そういえば、元々恋人さんが浮気している当時、日記を見つけて、ある意味では美味しかった。かなり抽象的に書かれていたけど。タイトルは「砂の上のお城」。痛くて美味しいってすなわち辛いか。

 

僕の人生の女性関係ほぼ辛かったな。

 

僕が観測される立場になったら、好きに見れば良いと思う。何を選ぶかは僕が関与できるところではない。要は、人の本質はやっぱりなんだかよく分からない中身にあるのだろうなということ。何の目的も効果もないところ。

 

 

そういえば、文学フリマを調べたらどうやら9月らしく、このままだと試験とは被らないから行けるみたい。匿名的読者としてしれっとステッカーと新刊を採取することを目論んでいる。人のことそんなに覚えられなさそうに観測されるから、マスクと眼鏡で武装して演技をすればなんとかなるかも。たまたま見かけて立ち読んで、、、

 

いや、かなり無理がある。嘘は付けないし、なぜだか認識されているし。であれば逆に、好きですって笑顔で言えるような練習をしといた方が良いか。

 

なんだか暗喩的な恋文みたいになっているけど、まぁしょうがない。ここ自体がそういうものだし。

 

では。

 

あわよくばもっとぐっすり寝られていますように。

 

おしまい。

 

 

ほんとのところ

 

 

 

昼休憩がおやつタイムくらいの時間。雲でフィルターがかからないと直視できない太陽の光。とても真っ白。都市計画なのか駅ビルの庭に咲いた花にはちゃんと名札が付いている。なんとかキク。頭の中に画像的には名札の記録もあるのだけどなぜか言語化できない。

 

さておき。

 

今日の夢の舞台もやはり実家をモチーフにしていたのだけど、なんか立体感がおかしかった。廊下がやたらと狭し。そして、なぜか出てきた羊と馬。羊は見かけただけだけど、馬は撫でた。現実の馬の気持ち良い部分は定かではないけど、鼻面を触っていたらとても気持ち良さげだった。笑う馬。飼育係(ここでは妹だった)が、撫で方を教えてくれようとして、まぁ大丈夫かという感じで何も言わない。その後もりもり草を食べている姿を見て、とても気持ちが良かった。

 

しかし、感触はなかった。夢で感触があるときとないときの違いはどこにあるのだろう。まぁ現実でも同じか。自分の体が接するすべての感触なんて感じてられない。

 

なんのメタファーだろう。なんでもいいけど。

 

リアルの話。

 

後ろにある半月をちらちら眺めながらいつものスーパーに寄ったら、たまたま推しの店員の女の子が買い物用のかごを入り口に片づけていて、少し待つかと思って立ち止まって居たら、かごを渡してくれた。これだけだとなんとも思わないのだけど、ちゃんと取っ手を立てて持ちやすくしてくれたところにぐっとくる。ついでにいらっしゃいませの発語。思わずありがとうございますって言ってしまう。やっぱりすげぇなぁって思う。我ながら基準がおかしいけど、こういう、枠の中で許されている限りの最大限をやってくれることはとても気持ちが良い。別にやってもやらなくても良いし、それを見ている人なんてほとんど居ないだろうに。

 

たぶんお客さんのこと結構覚えている人だろうなという想像。願わくば良き客として認識されていればよいけど。

 

(あれ、なにやら変な既視感)

 

コンビニの店員さんも結構客のこと認識している。これは経験則だけど。あえて覚えている感を出さないまでも、行動が省略されているのが見える。僕はマイナーな煙草頼むから余計に、今日は買うのかなって思っているかどうかでよく分かる。知っていそうな人には銘柄で、新人さんとか留学生には番号でとか。

 

何のリアルだこれ。

 

もう少し遡り。向かいの同僚さんとの雑談は楽しい。別にそんなにいっつも話すわけではないけど、興味持ってくれているのだろうなということを表してくれるから、僕も同じ水準で返す。受電が入れば途切れるのもなかなか楽しいこと。

 

なんでこの仕事選んだのだって聞かれたから、近かったからって答えたけど、そんなんが基準なんかいってびっくりされた。その先を話す前に途切れたから説明はできなかったけど、まぁそう捉えてもらって問題はない。

 

そもそも、仕事ってそういうものではなかろうか。やってみないと中身なんて分からないし、何か理想を前提とするほどあれだし、基準を増やすことで何か有利になることもない。なにせ一番は、中身に居る人たちの人間性だったりするから、どんなに条件が良くても運ゲーみたいなところがある。

 

もっと言えば、人生という、自分が自分であることすら自分で決めたものではない。これだってやってみて、というかやらざるを得なくて折り合いをつけているのだから、この流れでの選択的意志の脆弱性よ。もちろん雑談時間がもっとあったとしてもここまでは話さないけど。資格試験の勉強をしているから時間を確保できて負担がない仕事であればなんでも良かったし吟味する時間も無駄だったということくらいは言うかもしれない。

 

そうして、興味のお返しに、一ヵ月くらい前シフト云々の話をしているときに7月の連休に追加で休みを入れて、どこか旅行に行くって言っていたから、行先決めたんですかって聞いてみた。

 

遥か北の島に行く予定を立てているらしく、なんでそこに行きたいかというと自然が綺麗だからとか。とても良き趣味。

 

ちゃんと現実でこれくらいの疎通は取れる。ただ、思うのは、僕にとって会話ってヒアリングするための道具なのだろうなと。会話で本音が言えた経験則が一切ない。どれだけ物理的関係で近くても、というか近ければ近くなるほど言えなくなる。これって、たぶん、感謝とか好意的発言が自分への効果に直結するからだろうな。いや、そんなことの為に言動してないってなってしまう。いや貰えるものは貰っとけっていう観念も分かるけど、僕はそういうの駄目だった。だから、近しい人との会話は薄くなる。薄いの意味は、いちいち自分と相手の文言を考えなくて良いから、再現できないということ。ある意味とてもバーチャルな世界だった。確かに、これが生活だって定義されたら、うむ、とてもよく分かる。貰うために与えるとか。

 

まぁ良いとして。

 

定義の話。

 

読みたいように書けば良いっていう本を立ち読みしたのだけど、その中に、定義したものは忘れないというフレーズがあった。その一例として、趣味の定義があり、切手の収集癖について手段と目的が逆転したものとか書いていたのだけど、これって網羅的に定義できているのかと。確かに一部の定義はできているとは思うけど、だったら旅行は何の手段なのか。

 

僕は国語辞典的な定義は枠だと思っている節があるからなのかもしれないけど、定義は結局人それぞれでしかないと思う。

 

趣味の網羅的定義は、目的とも手段とも関わらないものに対する選好で良いような。何かの効果を求めるのであれば、それは啓発ないし、ストレス解消の道具になる。これはカントさんの判断力批判からの流用。

 

で、罪と罰を読んでいて思うこと。ドストエフスキーさんは、人の頭の中身に自分と同じように文字が溢れている風に観測していたのかもしれないという観測。手紙も発言もいちいち長い。

 

僕としては、人の頭の中に文字はないという説を推したい。書いたり話したりすれば文字にはなるけど、自分の中だけで考えるときに文字を遣うのはとても非効率。言葉は枠だから、いちいち枠にはめて考えてはいなくて、もっと言語化されないイメージで思考している。どう思考したかと問われたら、言語でしか語れないから言語化しようとするけど、宣伝要素も関わってくるから、ずれが生じる。

 

あの本、書けば書くほど世界が狭まるというフレーズもあった。確かにそうだと思う。人の日記とか見ているとそう思う。僕の日記はどうかというと、見ての通り。

波さんと接して(いやほとんど関係はないけど)楽しかったなと思うところ。

 

ほぼ過去形にしているけど、別に過去も現在も未来もない話。

 

普通に考えれば、とても気持ち悪い発言をいっぱいしているから、それでも嬉しいってなんぞやってずっと想っていたけど、このブラックボックスがあるから楽しかったのだろうなって。もっと普通に考えれば、現実的な文章から見たこの人を踏まえたら、とっくに終わっている。

 

つまり、普通に考えていけない。人は理解したいようにしか理解しないの反対になって困る。忙しいのに読みに来ないでよって。

 

楽しさを提供してくれてありがとうございましたで良いか。

 

おしまい。

 

あわよくばぐっすり寝ていますように。

 

 

 

 

 

はためいわく

 

 

 

二回外に出たけれど、今日は良く寝た。眠いから寝るのではなくて、寝転んでいるから眠くなる感じ。夢は見過ぎて描写できない。夜に出かけたときに見上げた月はちょうど半分。明日からは遅番だから、月を見上げながら帰ることができる。

 

さておき。昨日の日記の一部は恥ずかしくて衝動的に消してしまったけど別に残しておいても良かった。愚かな中身がとてもよく描写されている。あんまり分析することにも意味はないのだけど、まぁ良いか。

 

恋愛感情を前提とした思考の無軌道性とおこがましさと周回性。自己観測だと無為さがよく分かる。考えるの体はなしているけど、事象と結果を繋げる道具が願望だからまったくもって説明になっていない。ついでに根元にある感情も対象も概念ですらないから、どこまで潜ってバラしてもどこにも向かえないし辿りつかない。願望は期待と想像の中間くらいにあるものだから、こうに違いないでもないしこうだろうでもなく、こうあって欲しいだけど、この願望が僕に都合が良い訳でもない。願望は基本的に都合が悪い方に向かう。

 

こういう不毛さが醍醐味だけど、これって別に言語化する必要もあえて見えるところに置く必要もない。必要というか、効果か。この不毛さをごまかすためには、基本的に効果に向かわなきゃいけないのだけど、僕はこの効果という名の現実化は求めていないという。だったら不毛さは自分の中で味わっておけよと思う。

 

バーチャルとリアルの話で、とりあえず、人は物理的な肉体にまつわるものを現実としているのが現在だと思う。たぶん、人格とか精神より価値が置かれている。人格や精神がより剥き出しになるのはSNSの世界だけど、ここにおける他人への信ぴょう性というのは、リアルよりもとても軽い。それは、肉にまつわる不都合性を捨象できていうご都合性にもよるだろうし、このご都合的世界では、まず自分が偽っているという前提もありそう。

 

別に良いとか悪いとかの話ではなく、何を重視するかの話。僕は、肉体の檻の枠で観測する人より、そこから離れたところに在る人格の方がよりその人の本質なのだと見るだけ。別にコメントなんて返さなくて良いし、相手のことを見るかどうかに対してもなんの制約もない。制約があるとすれば、リアルから離れ切れていないということで、それも当人次第だからなんの問題もない。何故不自由性を感じるのかもなんとなく分かるのだけど。これも情報格差の話。でも、リアルの方が自分の情報を発信できていると思える前提はどこにあるのだろうということは気になる。リアルにおいて自分の意志を働かせることができる領域なんてほとんどないような。

 

幽霊の近未来SF小説の中に、100年前の経済学者が「人の言動はすべて宣伝だ」と言ったというフレーズがあった。時代設定が100年後くらいだから、今の最新経済学者にそういう人が居たのかと思うけど、フィクションだから本当のところは分からない。しかし、ここ数日の思考と繋がってなかなか腑に落ちた。

 

宣伝の定義は、たぶん需要を増やすというところに根がある。情報も宣伝らしく、つまり、ちょっと誇大表現になるということ。例えば自己紹介に苦がない人は、自己を宣伝することに違和感を抱かない人。苦がある人は、自分を宣伝する意味をいちいち考える。要は自己観測を何の為にするということになりそう。僕は後者側だけど、別に宣伝することに意味はないとしている。勝手に評価してくれる人は評価するし、あえて自己宣伝を言語化できるのはしたたかだと思うけど、それで相手に対する評価が左右されることはない。

 

この意味での宣伝で他人のことを決める人が居たら、よほど情報リテラシーないか、世界が言動で決まっていると思い込んでいる人だなって思う。もちろん就活とかになってくるとそこしか情報がないから、どれだけ宣伝できるかを見るのは分かるけど。

 

これを自己表現の文脈にすると、自分がどう自分であるかの宣伝か、自分が依っている思想への宣伝で、どちらにせよ、肯定的な需要を増やすためにある。議論でも、結局は自分が正しいことを宣伝したいという文脈なのかも。

 

僕にはこういう感覚は一切ない。需要が増えることはめんどくさいまである。別に吐き出しでもないし、ここに書かなくても僕に何か不都合がある訳ではない。観測されることに意味があるのではなく、観測している人の意味が気になるだけ。まぁ更新されるから読むという機械的な動機も分かる。僕も自分が可視化できる形で更新してくれないと読めないし、商業的な更新だったら課金すれば寄与できるけど、それができない領域では待つしかできない。

 

森博嗣さんの小説が好きなのは、定義がしっかりしているから。概念なのかな。希望は個人の内側にあるものではなく個人の周辺にあるものだとか。全部読むほど好きではないのだけど、すべてがFになる、の系譜の話しか読んでない。

 

現実と仮想の領域があいまいになっているのは、別に精神に異常をきたしている訳ではなく、化学の最新知見を取り入れているから。相対性理論は光速に近い速度で移動しないと実感できないということだけど、なんとなく、もともと感じていた違和が説明されている気がする。相対速度は、精神的速度にも適用できそう。精神は物理的ルールには従ってないから。

 

こうして、リアルが塗り替えられるものでしかないというのは、コロナ禍でも実感されただろうけど、だったら、ほんとうに不変なリアルとはなんぞや。

 

僕の結論としては、案外可視化されない気持ちではないかと思っている。切なさとか嬉しさとか、対象と相関していないもの。対象と相関していないといけないものは交換性がある。条件付きというか。

 

そういえば、昨日の日記で思考の交換とか言っていたけど、これは対話では不可能なこと。会話しながら思考を宣伝するのは、ごくごく限られた領域ならありうるけど、全人格的には無理。

 

だとすれば、もう実現しているような気がしないでもない。これは願望の話ではなく、そう読み取らざるを得ないという意味で。だから嬉しいということもないけど。むしろ大丈夫かなって。

 

あと二十数回好き好き書き続けるのも、なんだかなぁとという感じだけど。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

kaisou

 

 

穏やかな感じで寝たのに、変な夢を見た。旧実家の方で網戸にして昼寝していたのだけど、網戸のすぐ外に大雀蜂の巣があってうじゃうじゃと網に群がっている。網戸の下の方が破けていて侵入されそうになったから、やむなく殺虫剤で撃退したのだけど、なかなかグロテスクだった。無数の蜂の死骸と女王蜂と蜂の子と。そういえば、現実の旧実家の二階の雨戸のところに蜂の巣の残骸があった。あれを残しているのは何か縁起物だったのだろうか。

 

雀と言えば、金曜日に弁当を食べていたら、やたらと懐っこい、ご飯をねだってくるのが1羽。院の時にコンビニおにぎり食べているときに米粒食べにベンチに上ってきた奴との類似性。与えられることに対する需要は一緒か。

 

 

ともあれ。少し飲み過ぎた次の日は、精神と物理的肉体が近くなる。本物の二日酔いになったらそれどころではないのだけど、ちゃんと自分が肉体に基づいているという認識。風邪の時と一緒。風邪は現実にかまけて蔑ろにしたツケのような。毎年風邪引いていたのにここ何年年か引かなくなった。邪気がない。

 

そうして、書けないことをして、水分補給のために外に出た。コンビニの手前の自販機でファンタグレープとポカリを購入。個人的にファンタはグレープよりオレンジが好きなのだけど、自販機であんまり見かけない。メロンに至ってはドリンクバーにしかないし。

 

ポカリの話。スポーツドリンク系は、幼少期とか小学生までは風邪の象徴みたいな、体調が悪いときに飲むまずい飲み物だった。高校になって水分補給の為に飲むものとして美味しくなった。マッチとかライフガードの方が好きだったけど、練習とか試合中はアクエリアスを飲んでいた気がする。そうして大学以降は、二日酔いの後の水分補給になる。ポカリスエットは糖分が多すぎると聞くけど、こういう系の飲み物の中では一番美味しい。グリーンダカラは変な汗が出るし、アクエリアスは薄いし。経口補水液は飲んだことないかも。

 

味覚の変化に対して自分が成長したと認識できる人はとても健全だと思う。確かに忠実に経験則だし。例えば、自分が不味いと思っているものがとても健康に良いと認識して食べたとしても、不味さが更新される訳ではない。不味くても食べなければというルールが形成されるだけ。

 

自分の体を限界まで動かすという意味では、僕は長距離走が結構好きだった。ランナーズハイの感覚は肉体を前提としながら、肉体とは離れている。

 

さておき。

 

何を現実とするかの話。昨日は最後の方適当に書いている。もっとしっかり考えねば。

 

たぶん考えることが疎外になるという観念は、新しいことを何も取り入れない環境にあるからだと思う。素材が更新されないのに既存の素材だけで考えるなら、そりゃあ閉塞的なことになる。これでは考えることはどこにも向かわない。

 

でも、どこへも向かえないからこそ定着できるという観念はとてもあり寄りのあり。反省的思索は自己解明にとってはとても大事。

 

僕は、人が現実としているものはだいたいバーチャルなのではないかと考えている。もちろんそこに実感があれば特に問題はないし、だいたいの人はそういう風に生きている。物理的な世界が現実だろうと反論されたら、物理的な世界をどの水準で見ていますかって再反論したくなる。ニュートンさんのかアインシュタインさんのか、ひも理論なのか。

 

まぁ前提を省略できることはとても合理的である。僕もあえて他人にいちいちそんなこと聞かない。あえて聞いてみた人は何も答えてくれなかったけど、それはそれで合理的だと思う。

 

ところでというか、僕の個人的な現実感だけど、僕は現代の一般的な知識水準にすら届いてないという感覚が拭えない。ただ、この認識が僕の現実に寄与するのかというのは別問題。基本的に、他人の認識に対して齟齬がなければ、どこにでも生きられる。

 

これができないことが、自分を大事にしているかというと全然違う。本当に守るべき自分があるなら、自分がどう見えるかなんてどうでもいいはず。

 

他人からの印象値なんて、コントロールしようとすればいかようにもなる。啓発本っぽい説だけど、素朴に考えて他人の印象を自分がどう決めているかから逆算すれば自然な結論。

 

他人なんて基本どうでもよくしか見ていない。どうでも良くなるのは価値があるとき。だから僕は、価値がないのに捉えてくる人格が気になる。

 

 

この文脈から考えたとき、自意識って、情報格差なのだろうな。自分の情報は一番自分が持っていて、でもそれが現実化できない齟齬に対する葛藤。

 

僕はそういうのはもう終わった。自意識をどれだけ表明したってまるっと捉えられることはない。というか表明できたことがない。

 

だから、ここもバーチャル。

 

でも、バーチャルであることと現実であることに価値の違いなんてないという主観。なんでそこで分けなきゃいけないのか。

 

好きと大事の違い。好きは確かにバーチャルで、大事はリアルに近い。僕は直近の元恋人さんのことは大事だなって思ったけど、当人は好きだって言ってほしいってことで別れてしまった。嘘は言えない。

 

好きに現実的価値なんてないのに。波さんはその辺よく把握しているような感じ。だから好きって言える。買いかぶりかもしれないけど。

 

好きは、継続性を前提とする言葉ではない、刹那な概念。好きだから何をしても良いみたいな無軌道性もある。僕はそこまでのことはないけど、波さんに対する好き概念はとても切なくて良い。

 

全然美化してなくて、僕に対して発してくれた言葉と現実を前提として。だからやめておけと言ったのに。

 

あともう一つ。好きの観念の純粋な領域は交換ではない。だからこそ、ちゃんとまともに生きている人はこんな文章読むべきでない。

 

最後。僕が他人にどう見られるかもバーチャル。これは現実世界で過ごしてきた集積だけど、元気っぽく感情豊かっぽく表明できれば、それが僕の現実になる。全然中身と違うけど。

 

つまり、これくらいの水準でしか人は人を把握していないということ。翻って言えば、自分すらこの水準。

 

波さんとは思考を交換できるかなって思ったけど、まぁ全然必要ではないから返信がないのも分かる。とても好きだ。

 

おしまい。