思考の坩堝

避難所

誰が決める?

 

 

 

昨日のは、最後の方、共感じゃなくて同情だな。というより、あなたもこう感じるでしょうって内面に侵食する作用みたいな、厳密にはどちらとも違う作用か。言葉から内面を測ることは問題ないとしても、その内面は自分が予測した当人でしかない訳で、相手の感情とか思考は闇の中である。

 

思想良心の自由というのは良くできたもの。国が人の内面を探ること自体を禁じている。もともと踏み絵とか西洋で言う魔女狩りとか、ユダヤ人迫害、は微妙か。この、人の内面を決めつけて有害性かどうか判断するって、かなり素朴に魅力的な感情なのだろうなと。

 

表現になるとまた微妙に変わるけど。思想が表現になった時点で思想の外への現実化だから、現実なりの統制がある。思想良心には単なる記憶とか好悪は含まれならしいけど、表現には当然含まれている。もともとの表現の自由は政治的な発言だったからこういうことになっているのだろうけど。

 

表現の自由とか内心の自由が完成しいてくと、返って原始状態に戻るのかも、と思わなくもない。不快感は原初の連帯感。嫌悪間でしか繋がれない関係はなかなか原始的だけど、それくらいの自由が許容されるのはまさに社会的に成熟している。

 

法律も社会も、個人の総体から創られたものではあるけど、個人そのものではない。

 

さておき。

 

今日は、ぼちぼち本を読んで、なんだか知らんが弁当を作る前にお風呂の掃除をして、割と活動的ではあった。でも、なんとなく寂しい感はある。気温なのかなんなのかは知らないけども。気温は、10℃台になって季節感がやっと出てきたかな。外気にはまぁまぁ敏感だけど、寒さ自体には強い。これは平熱の関係なのかどうかは知らん。

 

昼寝していている時に何か面白い夢を見た気がするのだけど忘れた。

 

僕は何をもって人と繋がっているとするのかが良く分かっていない。

分断を是とするから、相手が自分に何かしてくれたとしても、これは相手がしたいから勝手にやっていることであって、僕がどう捉えるかは別問題だろうって。

 

祈りも勝手だから良い。

あと、つぶやき滞っているのは何かあったのかなという心配と評される思考も勝手だ。

 

やはりこうなったかという感じ。

 

 

まぁいいとして。

 

英語もほぼ毎日やっている。TOEICの単語集アプリの例文集を聞きながら弁当を作って、お風呂読書で1ページずつ音読している。単語はなんとなく増えてきた感。これの流れで、日本語を話せる人が日本語の文章を読めるのかというひとまとまりの思考があるのだけど、また今度。発話、読み、書きってそれぞれ別の回路だろうって。

 

音読と言えば、仏教の本の巻末に般若心経が付いていて、これも音読してみたのだけど、リズムが良い。意味はまだあんまり分からないけど。

 

あと、古事記の音読も良い。

日本最初のまぐわいの描写のところを読んだのだけど、性交渉の同意の取り方が書かれている。なんていい女、なんていい男、僕のはみ出した部分をあなたのへこんだ部分を合わせてみませんかみたいな。なんで最初の子供が蛭子だったのかは分からないけど。試行錯誤の表現なのかどうなのか。

 

会計と租税法と数学が同時に終わって2周目が始まっているのだけど、僕は自分の頭の悪さを知っているから、あと5回くらいで理解できればいいと思っている。そういえば日本史も2周目か。考えるためには概念を定着しなきゃならない。

 

みんな自分への諦めが早すぎる。

 

本を読むときも、心象風景で展開するのか、理解に努めるのか、疑問を抱きながらなのか、色々彩があって。同じ方法論では読めない。これは別に本じゃなくても一緒。日常を当たり前としていれば平板な毎日だろうけど、読み方を変えればなんとでもなる。

 

ならないよって言うなら、それは、近しい関係の中に自分の世界の見え方を規定している存在が居るような。でもどうあっても最終決断は自分だからなぁ。

 

 

おしまい。

 

皆さん良い夢を。

 

 

であるために

昨日の日記はつらつらと母親というか、母親のような精神傾向を持った人に関する歪みを書いていたけど、一番大事なことを書いていなかった。

 

僕の方が歪んでいるけどねと。

 

僕がメンヘラ傾向のある人とか、共依存系の人と関係していたことは、ある意味マザコンの亜種だったのだろうなと。耐性があったのも然り、まだ田舎社会の普通よりましだったし。

 

結局は何を自分に依拠するのかというところ。依拠しているっていうのは、何をもってこの世で場所を取っているかということ。僕としては、この依拠自体が不要なものだとする立場。何かの為になるから生きているっていう思考回路自体が逃避に見える。母親が、母としてやれることはやった(のに)みたいな発言をしている時に、その中に意志はなかったのかって思う。意志だとすれば、対価は考えないはず。

 

あと、お金にシビアな親子関係も2例知っているけど、これはこれでどうなのかと思う。確かに最初の他人が家族だっていうのは分かるし、生活の糧も大事だけど、他人との繋がりが貨幣でしかないという世界もどうなのか。この世界だと他人の行為も貨幣で換算されそう。

 

まぁ人間関係は返し返されだとは思うけど、施したから返ってくるべきだというのとは順番が逆。返すのが先で、返ってくるかどうかは分からん。

 

お祈り文化が僕の中で生まれた土壌はこういうところにある。

 

僕は意志という言葉より意思という言葉の方が好き。意がなんなのかはともかくとして、志向性というより、思うところに在るほうが近いようなという感触の話。

 

そういえば、今日はお出かけして買い物に行ってきた。債権法改正に連動した商法はどうなっているのかという専門書に当たりをつけて、梅田に行かずに千里中央に行ったのは、人がなるべく少ないのもあったけど、本屋的に好きなの。田村書店

 

まぁ、普通の人のルールって民法とされているけど、現実的に関わるルールとしては商法の方が多いだろうなと思って。どちらにせよあまり可視化はされないけど、可視化されないものが何なのかっていうところは、僕の意思の本質でありそう。

 

当たり前は可視化できないっていう感覚はずっと思っていようと思う。

 

ところで、お父さんと娘の会話がたまたま耳に入ってきた。(人混み苦手なのはこういうアンテナが装備されているからというのはある

 

ワールドカップまで三時間勉強しなさい、三時間しかないのだからみたいなお父さんの真顔の発言(視力というアンテナが略

 

まぁ小学校低学年から中学前半くらいの娘が大した抑圧を受けてなさそうだから良かったけど、勉強時間が習得した知識に直結するなら、とっくに皆義務教育の知識を全て得てセンター試験満点になっている。

 

三時間勉強させるのなら、お父さんが一時間教えた方が定着率高いかもしれないし、結局はどれだけやったかというより、どれだけ再現できるかだと思われる。

 

でも、初めてのものは良く分からなくても通すことが大事で、満遍なくとっかかりを作るっていう意味では義務教育はありだと思う。成績評価は正味要らんかなという感じだけど。僕が日本史とか世界史とか数学をもう一回浚えるのも、一回目があったから。学校の教育が実学としては無用のものだし習得しなくても良いって主張できるのも一回目があったからで。

 

強制的な一回目っていうのは大事。

それで、嫌だと思えばそれまだけど、それすら教養の一部で。

 

世界の可視化で言ったら、なんで台風ができるのかとか、低気圧で頭痛が起きるのはなんでやとか、知覚のメカニズムとか感情の起こりとか、知らなくても当たり前に生きている訳で。

 

自分探しって昨日の日記に書いたけど、生きる意味探しみたいな思春期の話ではない。生きる意味はないって結論付けている。じゃなくて、自分というメカニズムの研究。全然聖人ではなくて、異性への支配欲もありそう。これって、母とか姉とかも含めた女性社会への反発だから具体的な相手には出さないだろうなとは思うけど、我が感情ながら気持ち悪い。

 

あと、怒って良いんだみたいな風潮になっているけど、これって他人に怒りの感情を投げていいってことではなくて、自分の怒りがどこから来ているのかに向き合いましょうでしかない。怒りを他人に大っぴらにできる人って、当人の中で感情を吟味できていない。怒りの本質って世界への要求とか反発かと推察するのだけど、乳児幼児だったら泣きわめいたりぐずったりして助けを求めるしかないけど、大人が怒ってなんかおかしくないか。

 

要求を内省して、理性的に伝達した方が効果高そう。自分は怒っているっていうことを表明したい説もあるけど、だからどうしたいのってなる。

 

という意味で、僕も怒りを開放した方が良いかなと最近思っている。

誰かに愚痴りたいじゃなくて、ヒトカラという現代的な王様の耳はロバの耳で思う存分叫ぶとか。僕は僕を決めつける人に怒りを覚えている。

 

やっとここから本題。

 

十二国記詳説。

 

僕がこの物語に出逢ったのはアニメからだけど、なんだかんだ原作も全部読み終えてしまった。僕が何でこの物語に惹かれたかって分析すると、世界観が凄く創りこまれているところ。

 

現代日本人が異世界に紛れ込んだっていう意味では、ライトノベルに近いのだろうけど、おそらく作者さんの中では、物流とかインフラまで繋がっていて、世界の1つとして完結している。

 

出逢った当時は分からなかったけど、システムが凄く面白い。神様が居て、王様を選ぶ麒麟が居て、選ばれた人は寿命がなくなるって、ある意味国家そのものじゃないかと。ルールが細かく決まっているのも、物理世界のパロディっぽい。他の十二国記ファンがどういう風に読んでいるかは知らんけど、僕は当たり前の可視化のためのファンタジーに見える。例えば、この世界には半獣っていう、人間にも変われるけど、獣人形態の方が楽だっていう人が居て、障がい者とか精神疾患の比喩かもなとか。迫害されているし。

 

18年も続編を温めていたのは、十二国記の世界の秘密を開示するかどうかを迷っていたのではという逡巡期間だったのではと妄想している。ルールの外になっているし。個人的には慶王が出てきて欲しいところだけど、含蓄がありすぎる小説。

 

読書の効用って、ファンタジーでも良いけど、自分の外にも世界があるっていうことを把握できることではなかろうか。自分のための物語のために小説を読む人もきっと少なからずいるだろうけど。

 

物語の登場人物に自分を重ねられないと読めない人は、どれだけ読んでも自分に都合よくしか読めない。

 

これは物理的世界でも変わらない。

 

他人にはその人のエピソードがある訳で、同じ現象に接しても見えるものは違うし、残るものも当然違う。これを一緒にしようとすることを同調圧力と呼んだりする。

 

でも、これって、突き詰めると人それぞれで世界そのものが違うってことにならないか。

 

 

法律みたいな一番大雑把な括りでも、社会みたいなきめが粗い網でも個人は捉えられなくて、一番は、相手には固有の物語があるっていうことを読み取ることが相手を尊重することではなかろうか。

 

共感じゃない。共感は基本的に気持ち悪い。ある意味強制的まぐわいみたいな生臭さがある。これの意味が分かる人は、友達になれる。

 

そもそも共感って共感する主体のためのものだし。

 

ということで、僕は勝手に好ましい人は好ましいし、それで好ましさが返ってきたところで嬉しいだけで、原動力にはならない。いや、依怙贔屓的には微妙だけど。

 

他人事に悲しく思える感覚も良く分からんのよね。

他人事で悲しめるなら、世の中に存在するあらゆる他人事に悲しくなるのではって、当人の中でどう整合性が取れているのだろうって。

 

 

いや、全部に関与することはできないからっていうのも分かる。けど、そうだとすれば、自分の範疇でしか悲しんでいないって言ったらいいじゃんって。

 

別に人に厳密さを求めてないけど、自分にそういう風に投げてくる人には反射するかなと思うだけ。

 

 

おしまい。

 

 

生きてるだけの他害性

なかなか疲れた。人を一番疲れされるのは人に間違いない。

 

 

疲れたときには鍋だろうと、塩昆布とほんだしと鯖水煮缶の塩気だけで作った。白菜、えのき、しめじ、舞茸、豆腐。何も付けずに食べているけど、後でポン酢つけて食べよう。あと、漬物コーナーで初めていぶりがっこを見つけたから即購入。サラダは毎日食べている。

 

採用される前に面談した上の方の人と昨日たまたま昼休憩上がりにエレベーターで一緒になった。鞄もってうろちょろしているのかって聞かれて、弁当入っているのでって答えたあと。自分も大阪に近々住むことになるから自炊をしないといけないとは思っているのですって。どうでもええエピソードだけどこの職場で良いのは、上から距離感が絶妙なところ。年下の単なる派遣に、見下した感が全くなくてむしろ尊敬の念まで見えるという。

 

人の質とは何ぞや。

 

冒頭に返ってきて、疲れたのは30分もいかない母親との通話。

なんだか、ヤンデレ? メンヘラ? の恋人と話している気分。よくもあれだけ自分を正当化しながら話せるものだと。あんただけは味方してね? 自分の味方になってくれる人誰もいないのだからっていう発言はぞっとした。待て、味方とか友達とかいっぱい居るじゃないか、あなたの弟である叔父はあなたの意向とは外れたことを言ったから味方でなくなるなら、味方なんて一生できない。

 

僕は面倒だから、聞く耳もたないだろうとふんふん聞いているだけであって、本気で何かになったら、容赦なく断捨離するだろうなという気がする。

 

男社会だから煩わしいっていうフレーズが何回か出てきて、そのエピソード自体は分かる、だから僕は離脱したという感じ。確かに気持ち悪い連帯感がある。引っ越すっていうのも勝手にやれば出し、墓守がどうのこうの、個人的には知ったことではない。

 

でも、我が母ながら不憫だなぁと思うのは、ある社会を否定しながら、結局別の社会に依拠しているというところ。家族だって1つの社会だし。僕が最初に離脱したかったのは家族親族社会だったし。というか母社会。

 

社会を問題とするって、個人が希釈化されて個人がない人にとっては生きやすいし、否定もしやすい。

 

僕が母親と話していて何が嫌かって言うと、全然相手のこと見ていなくて自分がいかに可哀そうかしか語っていないこと、自分はこれをした、でも相手は応えてくれなかったっていうののバリエーションでしかない。だから、あなたは応えてくれるよねって、もう人を人としてみてない所業。

 

で、凄く抽象化すると、他人を人として見れないというのは、僕がずっと書いているように、自己分析が足りない。自他境界が曖昧過ぎる。変な話、我が母ながら、思春期の少女みたいに見えた。どれだけ話しても、本当の当人が見えてこない。結局何を言いたいの?というか、何がしたいのって。

 

社会に疑問を持つなら、自分が作った社会にも疑問を持つのが自然だけど、それに対しては自分はこれだけやったのにって、自分を被害者にするという。例えば、そんなこと墓まで持っていけって思うけど、自分は子供達を大学に行かせて、就職までは面倒見ようと思っていたっていうは確かに親という役割としては立派で、恩恵を受けた身としては何も言えないのだけど、っていうところを上手く付いてくる。

 

この前の厄介なお客さんとよく似ている。

 

その役割をとった貴方は誰なのと聞きたくなる。

母の前にあなたは人なのでしょうって。楽しくしている方が本質なのではって。

 

で、僕が母親からの僕像を見る限り、僕を人としては見てないだろうなぁっていう部分が端々に見える。割と理知的なサイコパスではあるけれど、人って基本的に自分に都合が良くないものだから、関係するかどうかは当人のエゴでしかない。

 

僕は、自分が主体的に関係したいしたいと思っている人は自分のエゴだから、いつ切られてもしゃーないなというぐらいのわきまえはある。

 

 

そういう人だと分かっている以上、いつ断捨離するかも自分次第なのだろうなとは思う。

 

僕は大人の定義として、自他の境界をちゃんと区別できるということにしたい。

経済的に自立しているとかは、時代の話であって、人の話ではない。

 

例えば、母親は、自分はラインより通話が好きなんだーって言ってたけど、通話って人の時間を貰う訳。その間相手の生活を中断させる。だから、文字情報で伝えて、相手の都合の良いタイミングで返してくれたらええわっていうツールが発達した訳で。この文脈を理解しているなら、通話が好きだっていう概念は、自分に時間をくれた相手が有難いってことになりそうだけど、母親は違う。自分が愚痴を言える時間があって嬉しい感。資格試験の勉強していることも知っているだろうけど、この時間は別腹みたいな感覚があるかどうなのか。

 

って考えると、母親はナチュラルに敵を作ってしまう人なのだろうなと思う。

多分、あなたは子供を人として見たことあるのかって言ったらバグるだろうし。

 

まず、自分を見つけている人も圧倒的少数者だと思うのよね。

僕だってまだ探しているし。自分が苦しいことを誰かのせいにできる時点で甘い。

 

自分が社会の中にだけしかいないと思うなら、そんな自分さっさとやめれば良い。

 

最後というか、ほんとはこっちをメインにしたかったウハウハ世界の話。

 

十二国記の最新刊が18年ぶりにやってきた。

この感動は、この前文学フリマに行けなくて買いのがした落胆と逆方向で同じくらいの波。

 

このオタク気質なやつは明日書こう。

 

でも、僕がオタクじゃないのは、共通項で嬉しいとか思わないところ。

太宰治と友達になれると思っていても、同じように来れられても、友達の友達は友達じゃないだろうって。縁もある意味コストで。

 

賛同を得られたいのであれば、あんまり個人じゃないなって。

 

 

おしまい。

 

皆が無事でありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

接続

台風と自由と尊重とパターナリズム

 

僕が行っている会社、僕は今のところ勤務ないけど、通常は土曜日も動いている。けども、明日は営業停止するらしい。大阪だからそこまで影響があるかというと相対的には未知数だけど、サービス先が全国だから、防風圏内の店舗は営業控えようかっていう意志表示があって好感が持てる。営業を停止するコストと安全の天秤で安全を選んだということだし、自社の社員も守っているし。

 

というところで、今日は暇だったから隣の席の同期が、最終新幹線で東京に行くと言っていた。今頃は名古屋くらいか。

 

危ないからやめといた方が良いよとも言わなかった自分は薄情なのかという命題。

 

僕は自由には危険に向かうことも、危険なところに居ることも含まれていると思っている。この自由に対してそれを禁止しようという傾向はパターナリズム、日本語で言うと、保護主義であって、これが本当に優しさなのかという疑問がある。

 

そもそも保護主義って、対等じゃない関係性の中でしか生まれない。親子間での禁止なら分かる。これは安全を保つための保護だから。

 

でも、対等な関係において、保護主義的な考えが浮かぶのはおかしくないか。

危なさを知らない局面において、これは危ないって提言するくらいなら良いけど、危ないからやめろってなるのは、対等じゃないよなぁ。

 

そもそも、危険ってあらゆるところにあるから、なるべく動かないのが一番安全だし、移動の自由自体が危険を伴っている。自分だけは大丈夫って高を括るのも勝手だし、これこそが自由の本質。

 

良いことだけ得ることが自由だと思っている人は自由の観念を都合よく使っているし、事由って、変な話、自分を気持ち悪いと思っている人が居ても生活できることだと分かっていない。この表現で分かる人はマイノリティ。

 

僕から見ると、普通とされてそうな方が感情的にグロテスク。自他の境界が繋がっていて、自分と世界が結合しているから、まぁいいや。

 

 

良くもないか。心理学で、最初の人格形成の時点で満足できる経験を得た人は正常みたいな話があったけど、個人的な見解だと、本当にこの意味正常な人って居るのかと考えた。

 

 

で、今のところだけど、ここでいう「正常」って、自他の境界性が曖昧にできることなのだろうなって、重複表現。

 

曖昧にできるから、男は女はみたいにざっくり区切れるし、年齢もそう。正常の条件って、外から規定された枠を自分のこととして捉えられることだと思われる。だから、戦争の時に人を殺すことも、平常で自分の枠に含まれない人を平気で攻撃できる人は正常なのだなと。

 

僕の素朴な見解だと、正常って世界とか社会とは関係ない。

社会の最低限の刑法に引っかからない限り、どれだけ人を攻撃することも自由なのよね。このグレーゾーンで中でのバランスは、個人の人格でしかない。

 

という絶妙な瞬間が今世界の中での自分の人格。

 

 

外に何を言ったところで、自分の人格が癒されることはないと思われる。

怒りでも不満でも祈りでもなんでも良いけど、発することは単なるエゴでしかない。

,

共感されたいのか、賛同されたいのか、みたいに細かく分類すると、自分が何に攻撃的になるのかっていうのは把握できると思われ。

 

僕がどういう時に攻撃態勢になるかって考えたら、、今分析する頭がないから省略。

 

 

 

素朴なところに、どれだけ伝わっているかみたいな指標はあるけど、伝えたいっていう気概がない時点で表現者にはなれないのかなぁ(暫定

 

 

縁は呼び寄せるもの

なんとなく水曜日の気分で働いていて、帰り際に木曜日だったと気付いた。これは1日得したのか損したのか分からない。何を楽しんでいるかというと、枠内での自分のコントロールというか、相手のコントールというか。厄介な人に当たるのも結構ヒヤヒヤで楽しい。色々引き出し増えそう。

 

結局どんな時だって何かの枠の中だし、解放に階層があるだけ。なんだかんだ肉体の枠が1番内側ともいえる。物理的には。

 

さておき。

 

今日の帰りは、駅に言ったらちょうど降りてきた集団が見えたから歩いて帰った。トマトもきゅうりも高かったから、ぶなしめじを買ってえのきと副菜にした。レンチンしてほんだしとゆかりで和えて。あと、なぜか水ナスが安かったから人参と玉ねぎとささみで醤油味噌炒め煮。一瞬酢鶏を作ろうかとも思ったけど、時間の枠から見て無理がありそうだからやめた。

 

時間の枠を作らないと、想像もつかない時間に押しつぶされる。たまにある休日ですらそうなのに。という意味でも主観的時間の方が大事。あぁ、だから初期の数学は時間を度外視したのか。知らんけど。

 

ともあれ。

 

おやすみ、東京。読み終わった。なかなかタイミングが良かった。縁の話。色々名言もあったけど、自分の言葉ではないからここには書けない模様。とりあえず、何かと何かが繋がっているということを外から直感できることで名探偵にみたいな話があった。

 

 

ということで、縁の話。

 

僕が縁を信じているのは、一度実際にあったから。別にこのエピソード自体は今やただのアーカイブだからどうでも良いけど、縁の概念が変わったのは確か。

 

縁って、偶然と同じような文脈で捉えられているように思うけど、本当はもっと主体的なものなのではという問題提起。時系列を遡るにつれ、主体性の所在が分からなくなるから、主体性が確立した後に絞った方がわかり易い。

 

一期一会とか、袖振り合うもとかっていう言葉もあるけど、これって、世界軸の共鳴というか交錯というか、端的にいうと、求めあっていたからそうなったっていう表現が一番近いような。

 

いや、もっと細かく表現するなら、アンテナの感度という名の直感が一致しないと縁が起こらない。直観じゃなくて共通項にするとややバグるけど、共通の趣味とかで安易に繋がるから変なことになるのではないかとか。

 

直観とか言語化できるものじゃないから、なかなか難しい。

そもそも直観を言語で定義付けることなんて無理だし。直観がいつから直感として正しかったのかってなると、自分が子供だった頃に教えてもらうことになる。

 

やれやれ。

 

慣用句で真理なのは、類は友を呼ぶだと思う。

 

これって、一概には言えないってずっと遠慮していたのだけど、煩わしい人が身近に継続して存在しているってことは、その煩わしさをその人も持ち合わせているというか、その煩わしさで自分を保っている感もあるだろうなって。

 

類友で言うと、僕と本の縁のちょうど良さが凄まじく。おやすみ東京もタイトル買いで初めての作者で当たりだったし。あとは過去に縁があったけど読み切れる段階ではなかった本の消化もある。

 

どうでも良いけど、シュタイナーさんの超感覚の本は胃もたれしてきたから二度目の途中でやめて、交換枠に古事記。原文の書き下し文で、注釈も全然訳してくれていないのだけど、今なら読み切れそうと直感したのかな。

 

あと、煩わしい関係については、今の仕事場全くない。

でもこれってきっと職場が変わったからではないと思う。見えるものが変わったというだけ。

 

今見えている世界なんて、容易く変わるのが人間の可能性というもの。

でも、今見えている世界と自分の人格を直結することで自分を保つ感覚も分からなくはないから、おすすめはしない。ここは何回も書いているような気がする。

 

でも、世の中に大勢いる自分より賢い人たちが、知識によって人格を拡げてないのはなんでだろうと思うと、知が人格の為の道具なのだろうなと。こういう目的で収集した知識は、きっとマウントを取るための手段でしかない。

 

 

哲学は知を愛することで、好奇心とほぼ等しかったっていう言葉も灯。

好奇心も現代では野次馬みたいなニュアンスがありそうだけど。

 

最後。

 

縁が主体性だとすると、僕が近しい人が途切れないのは、自分が寂しがっている証左のようでなんとも言えないところがある。これも垢なのか、それとも本質なのかの判断は難しい。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

縁と円

今日の夢はまぁまぁ良かったはずなのに全然覚えていない。一日なんとなく調子が良かったところから逆算。

 

寝る間際に、深夜に洗濯機を回す隣人とは反対側の隣人が、絶対窓際で話しているだろうという音量で会話を始めたから、窓を閉めて、夢と現実の間をまどろんでそのまま就寝。予定より1時間早く起きて目がしぱしぱしっぱなしだったけど、それでもなお。

 

まず、気候が歩くのにちょうど良かったから、徒歩通勤した。帰ってからの時間の方が大事なのだから、発想の転換で出勤は歩いて、帰りは電車で即帰宅の方が良いと気付いた。多少の疲れも、仕事アドレナリンでなんとなるし、ぎりぎりまで寝ようが寝まいがあんまり関係ない。それよりもプライベートのが大事。

 

ということを反映したのかどうかは知らないけど、職場の最寄駅に着いたら人がごった返していて。人身事故とのこと。職場に辿りつけない人達への同情は飛び越えて、実際亡くなってしまった人も含め、交通事故を50分足らずで処理しなきゃならない関係各所へのプレッシャーを思っていた。道路だったら現場保存とかの時間はもっと取れるだろうけど、なんだか公共の圧力の凄さを感じる。同期は職場に定時でたどり着けなかった人に含まれるけど、人身事故があった区間を避けて往復すれば良いのにって言っていた。自分が関わってないところには容赦なく冷徹になれる。というか、想像の範疇が及ばないのか。

 

かつて、想像力の欠如みたいなことを誰かと話していたけど、これって欠如じゃなくて限定じゃないかと思ってきている。想像力は結局当人に基づいているし、これの広狭を比べてもたかが知れている。

 

想像力と共感はよく似ている。自分が相手の立場になった時にどう思うかを考えてみましょうみたいな道徳の授業のやつ。共感を道具とする倫理観は当人の感情の範疇に訴えかけるものだから、分かりやすいけど、感情がまったく想像できない領域になるとどうでも良いのかという話しになる。むしろこの延長だと感情が腑に落ちない人にはもう異星人みたいな捉え方になる。

 

本当の想像力は、感情の話ではない。

不謹慎だけど、本日人身事故でなくなった人のその瞬間の体感を想像するとか、そういうこと。自分の体がミンチになった瞬間のその人の意識はどうだったのか。これを可哀そうっていう他人事の感情で括る方が不謹慎だと思わなくもない。というか、思っている。

 

 

要は、想像では感情は生まれない。生まれるとすれば、それは相手の感情ではなくて自分の感情でしかない。この文脈だと、自分は人の気持ちに寄り添っているとか言える人は全く信用してはいけない。同情で生まれている感情も当人のもの。僕の感情は僕のものだし、相手の感情は相手のもの。

 

でも、これっておそらく道徳の授業には採り入れられないと思う。だって、集団への帰属意識が分断するから、義務教育のシステムになじまないもの。

 

1つ気になるが、「人は何故腰痛を選ぶのか」にあった記述で、「自覚されている感情は身体症状をもたらさない」。慢性の痛みはもたらさないという意味なのだろうけど、これとPTSDとか円形脱毛症は整合的に説明できるのか。

 

考えてみたのだけど、後者の症例は、感情より先に環境があるのかなという感触。逃れられない環境があって、感情は後付けかなと。

 

 

でも、もともとの感情傾向も環境が先にあるわけで、ある意味輪廻か。

感情も鶏と卵の話なら、何を自分とすれば良いのだろうね。

 

ということで、ちらっと見かけた命題で、人の内面なんて事故で障がいになってしまったら容易くぶっ飛ぶソフトなのに、人を見る時に内面を見るなんて良く言えるなって。ただ、これって、肉体っていうハードでも同じことは言える訳で。

 

人が何をもって他人を人とするかというところにも、想像力の限定が働いていると思う。

 

 

想像力の限定って、おそらく人が発展できた原動力でもあって。

いちいち他人の痛みとか感情の起伏が体感できる仕様だったら、全人類悶えまくって生きるどころではない。感じたことに思い込めるのが同情とか共感なのだろうけど、この精度で人との繋がりを満足できるのもきっと仕様。

 

共感があるとすれば、共通項じゃなくて、エゴがたまたま一致したことで、継続性は全くない。

 

 

自己観測範囲で言うと、調子いい時は、ちゃんと自分と他人が分かれている時で、その状態の方が上手く話しが聞けるという。

 

でも、これって、孤立したいのか繋がりたいのか、どっちの精神傾向なのか定かではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                             

直球論

 

 

嫌な夢ラッシュ。やはり中学までの交友からのセレクションだった。なかなか嫌な気分。これはどちらかというと、関係に費やしたコストに対する憤怒っていうより、自分が同じことを他人にやっていないかという、最後の垢みたいなものかなとか。中学まではなかなか劣等感と優越感を煽られたからなぁ。自分に言うべきことを他人への発言にしてないかとか。秀でていると思い込んでマウント取ってないかとか。

 

高校の同級生については特に何もないのだけど、何故だろう。まず、そこそこの進学校だったから、基礎学力が違うと思いついた。中学の同級生が30人くらい居て、普通科に進学したのは、上位の78人くらいか。そんで2年の選抜文系クラスになると結局1人だけ同じクラスだったか。どういう流れだったか忘れたけど、中学時代僕の顔が好みじゃないと評した人。そんな話どうでも良くて。

 

人は学歴では決まらないという。確かに人格の良し悪しは関係ないとは思うけど、比率はあるのかなぁと思わなくもない。誰か敵を作るみたいな派閥は、中学にはあったけど高校にはなかったし、そういうマウントを取っていたのは、商業科の野球部とかサッカー部の体育会系だったような。

 

まぁ、他人より自分がマシだと思う精神は自分を防衛するためにどの集団の中に居ても芽生えるものだけど、この芽生えってどうあっても先代からの継承だと思う。比較に違和感があったのはこの時代から。

 

単純に凄いと言われるのは問題ないけど、自分ができないことができるのが凄いと言われるのはなんか嫌。両者は質が違う。いや、厳密には言い方の違いじゃないけど。

 

もしくは、自我の殻がうまいこと装備できていたからなのか。大学以降なんだかんだ、離れたのも良かったのかも。ふらっと会いに行ってみたい人は2人居るけど、縁があればそのうち会えるかなというくらいでちょうど良い。

 

自我の殻については、大学入って読んだノルウェイの森のワタナベに近くてびっくりした。しかし、もはやここには居ない。

 

大学はどうだろう。もうちょっと良いとこ行けばよかった。

暗記で対応できる試験はあんまりおもしろくない。面白い講義として記憶に残っている教授も居なかった。まぁゼミの教授の厳しさとか、ひたすら読み上げてそれをノートに書き写す形式の刑法教授なら残っている。

 

そうして、大学時代の関係でふらっと会いたいなと思える人も今や1人。

 

何が違うのかと聞かれたら良く分からないけど、本当は断言できる。けど、結局好き嫌いに還元できる話だし、相手が僕のことをまだそういう風に思っているかが定かでないから、自発的には縁を決めない。

 

要は、好悪の枠でない枠に括られたとき、僕はプライベートでその人と接したくなくなる。仕事時間であれば公的時間だから何の問題もない。結局断言したけど。

 

 

んまー僕は自分の記憶を発掘するのも1つの趣味だから、そのうち何かお宝も発見できるのかもしれない。別に今の自分を補強するためではないから、ふとしたときに色々蘇ってきて楽しい。走馬灯の前借りみたいな。

 

 

こうやって自分自分としているのを見て、結局自分大好きかよと思う向きもあるかもしれない。その見解ってそれはそれで全く正解だと思う。

 

でも、結局人って自分の枠内でしか他人を観測できないっていうのがあると思っていて。観測範囲を広げるために必要なことって、色んな所に行くとかいろんなことをしてみるとかではないような気がする。厳密に考えると難しいところではあるけど、これって外を開拓しているというより、外からの刺激でどれだけ内側が開拓されるか。

 

ということで、結局内側だろうと。

 

で、一旦自分を単なる世界を観測する道具として俯瞰すると、道具として更新することが自分探りだったり。自分の死角がどこにあるのかって人のせいではないし。

 

でも、自分嫌いも他人嫌いも社会嫌いでもなんでも良いけど、窮屈だと思っている人ってなんだかんだ自分のことは好きなのだと思う。皆自分が好きだから、世界を変えようと思えるし、世界を嫌悪できるのだろうなと。

 

まぁ好きか嫌いかじゃなくて、否応なく固定化された自分ってことなのだろうけど、まず、その時分を決めたのが自分じゃないっていう観念があるのだろうな。

 

別に乖離性とまでは思わなくても良いけど、自分が自分であることくらい最低限観測すれば良いのに。自分を他責にしていない人ってそんなに人に怒れないような。

 

 

精神はともかく、世界への視界では、なんの感情も渦巻いていないときのほうがクリアになる時点で、もうだいたい分かる。

 

でも、感情が習慣になってしまった人とは関係したくない不思議。

 

おしまい。