最後で良いかな

 

 

こう、考えたことは言語化するより自分の中に留めておいた方が広いとすると、どうして言語化しているのかとふとした疑問が起こる。

 

あと19回。自分が決めたことなのだから覆すのも自由だけど。主に前倒し方面で。ここで終わりでも良い。

 

いや、とても楽しいのは確か。ここまで中身を言語化できたことは今までなかったように思う。よくもまぁ僕を読んでくれた。これだけ純度が高い好意もなかった。しかし、表明する意味はない。

 

言語というか、言葉。

 

毎日毎日万文字単位で本を読んでいるから、一般的な言葉論からは乖離しているのかもしれないけど、言えなかった言葉ってほんとうにあるのかとバグっている。

 

僕の中では凄く実感として腑に落ちるのだけど、説明しようとするとかなり難しい。何故かというと、言葉は自分の内側にもともとあるものだという観念がスタンダードだから。この観念からすれば、こう表現すればよかったというのも分かるし、僕もそういう風に捉えていた。

 

けど、本当にそうなのかな。考え方の話だけど、表面で言えば、言えないということは、その場にはその言葉は無いのではというのがまず1つ。この文脈では、言葉というよりそういう自分を表したかったということであって、言葉自体に意味はない。言葉で自分が表現されるという水準。ここで遣う言葉はそういう方向性を持っている言葉であればなんでも良かったはず。

 

この辺りで、たぶんついて来られなくなる。言葉って自己表現じゃないか。その意味ではここまでで終わるしその通りだよねって。どれだれ言葉のストックがあっても目的がこれだったら、人と話す意味はない。厳密には、人と話しているときに遣う言葉に意味はない。ここで意味があるのはどの言葉を発したかではなく、どう言葉を発したかという態様のこと。否定的な意味を持つ単語でも問題ない。

 

こういう、私的な言葉の外には公的な言葉もある。仕事で通話していて思うのだけど、ここにも特に言葉固有の意味はない。あるのは作法。僕は個人的にどうでも良い人との通話はしんどいのだけど、仕事でやっていると、どうでも良い人がすっきり疑問が解消してくれたのは嬉しいなって思う。

 

ここは僕にとっての嬉しいが、僕とは無関係ということになるのだけど、まぁあとで。

 

では、ほんとの言葉の扱いレベルでの、自分の思考とか精神世界の叙述という意味の言葉ではどうか。これも内側でやってますよ、日記とかSNSでは言語化できますっていう観念も良いけど、いろんな人を観測している限り、んなことはないだろうなって思う。

 

Twitterとかで諸々観測しているけど、自分の精神の言語化ではなくて、自分をどう宣伝したいのかの言葉。もともとその人の中にあった言葉のようには見えない。何に時間消費しているのだっていう人がやたらと多い。読むのも無駄だよなって。波さんの以外。

 

僕の話。

 

自分の言葉がもともとあったものだとは全然観測できない。むしろ、時系列の諸々の場によって自分でこんなことまで言語化できるのかとびっくりする感じ。もともと自己表現の為の道具としてないし、通話仕事では、こんなので良いのかって思うところもある。要は、発話で遣えるような道具としての言葉を増やせばいい。あとは安心を与える。これがもともと中身にあったのかというと別に単語で考えていないしなぁって。

 

正味、人が語彙と自己感の関係をどう扱っているのかは全然分からない。たぶん普通の大人は言葉と当人に距離を置いているはず。いや、過剰に投影することもあるかもしれない。知らん。

 

僕が自分と対話している人が言葉に詰まるフェチなのは、その人が俗世で使っている言葉で通用しないところで対話できているからだろうなって思う。あぁ、対僕専用の言葉の為に考えてくれているわって。この空白がとても好き。あんまり在りえない空間だからあんまりやらない。恋人さんにはしたことないな。

 

だから、ねっとり媚びるような声色遣う人駄目なのだろうな。自分の為に他人を扱っている。

 

 

僕は場においてしか言語化できない。ほんとの中身は非言語にあるから。そうして、この場は波さんが読んでいるだろうなという可能性的言語化の場でしかない。

 

言語化の上限はもっと先があるのだけど、好きになってしまったものはしょうがない。

 

 

という視点で観測したとき、僕は僕のことを固有で観測しているかどうかで見ている気がする。僕が固有に観測しているかとはとは全く無関係。ここにえこひいきはない。

 

自分の世界の中で流れゆくものだったらこの言葉はないなって。スプホリさんもきっとそう。僕が観測圏内から消えても、あぁこんな人が居たなって思うだけ。

 

だとしても、波さんに関しては全然整合性がない。僕に投げてくれた言葉も現実で観測した印象も、外に表明している像とは全然違う。この齟齬はなんだろうとは思うけど、ノイズでしかないだろうから、僕としては好きにならせてくれてありがとうございましたで終わって良い。

 

関係の需要供給とか、嬉しさに対する返礼の儀礼ではなくとてもリアルだった。でも、このリアルさは、きっと不要なものだろうから、僕はそろそろ退散します。

 

波さんの存在がなければ、ここの日記はなかったのは確実。

 

では、と機嫌と元気が両立しますように。

 

おやすみなさい。